2022年02月26日の聖書の言葉

2月27日 年間第8主日(ルカ6:39-45)

 そのとき、イエスは弟子たちに、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、譬え話で終始します。イエスは言われます。"み言葉を話しても理解できない者には、譬を使って話す"と。つまり今日の話は、聞く者、読む者に解りやすいお話ということになります。イエスの弟子となってまだ間もない者たちにとって、イエスからの温かい思いやりでしょう。ところが"譬え"ギリシャ語παραβοληパラボレーには、"なぞ、わな"と言う意味もあり、人によって譬えで余計に理解できない場合もあるようです。弟子たちはどうだったのでしょう。

 イエスは譬えのはじめに"盲人が盲人の道案内はできない"と自明である事を言われます。次に"誰でも修行を積めば師のようになれる"と言われますが、修行と言っても沢山あります。どんな修行を指して言うのでしょうか。例えば、日本で修行と言えば"千日回峰"、"百日回峰"、"修験道の滝行、護摩行"といろんな修行があります。その修行によって「悟りを得る、悟りを開く」ことを目指して行われます。つまり、どのような修行であっても"悟りを得る"ことなのでしょう。特にキリスト教では、イエスのみ言葉を生活の中で祈り、活かすことが、修行であると考えて良いのではないでしょうか。

 その修行生活は、「人のための人」に近づく為、自我から離脱できる人を目指す生き方と思います。この譬えで、"見えていない人は、あなたですよ"と言われると、確かに現在の私たちは、"その通りです"と言わざるを得ません。当時の弟子たちもイエスの目には「盲人」としか映らなかったでしょう。

 次にイエスは、弟子たちに向かって「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太・・・」と言われます。"おが屑"は"丸太を削って出る屑"です。つまり、"自分の目の中の丸太を取除けない者が、どうして兄弟の小さなおが屑を取り除けますか"というのです。

 私たちは、いつも自分の価値観という色眼鏡で物事を見て判断しています。つまり自分の価値観でしか物事が見えていないのです。今日のみ言葉のいう目とは、神から見た目を指しています。先ず、自分の思考を少し俯瞰的に見て、再考することです。そして、イエス様の価値観でもう一度、見直してみることでしょう。そうする事で何かに気づかされ、何をどうすれば良いのか、見えてくるのではないでしょうか。

 福音の最後にその道理が言われます。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」正に"良い木、善い人"を目指すには、自我の殻から脱却し、イエスの教える新たな道へ、喜びと共に歩み始めることでしょう。

参考:(第一朗読:シラ27・4-7)・(第二朗読:一コリント15・54-58)


2022年02月19日の聖書の言葉

2月20日 年間第7主日(ルカ6:27-38)

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

 「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、イエス様がこれから神の国を大勢の人々に伝えるための準備として指示しているように思います。洗礼者ヨハネからの受洗後、荒れ野で40日間の誘惑試練、そしてガリラヤから始まった伝道。ところが故郷のナザレでは、誰もイエスを歓迎するどころか、追い払われたのです。その後、イエスはカファルナウムへ行き、会堂で教え、困った人々を助け、病気の人々を癒された。そこでイエスが見たもの、それは大勢の人々が苦しみ悩んでいたことでした。この現実を知ったイエスは、この悲惨な状況を変えなければと考えられたのでしょう。その為には、この世界で生きる人々が、同じ世界で苦しむ人々を助けることが一番効果的で良いと判断されたのだと思います。

 そこで神のみ旨を知ることが出来るように、先ずイエスの弟子となる者から探す。当時イスラエルには、12の部族があったことから代表者12人を相応しいとされ選ばれた。後に彼らは12使徒とされます。そして、イエスは選んだ弟子たちを従え、方々の町や村へ神の国を宣べ伝えられます。その始まりが「貧しい人は、幸いである・・・」、このみ言葉でした(ルカ6:20)。

 それに続いて今日のみ言葉「敵を愛しなさい」と話されます。今日の言葉は、何故か極端な言い回しのように感じさせられます。しかし、あえて極端に反対の言葉を並べる事によって、聞く者に解りやすいと考えられたのでしょう。さらにイエスは、弟子たちに向かって諭すように語ります。イエスの言葉を聞いた弟子たちは、どのように受け取るのか。み言葉の箇所をよく読むと、27節から36節は、"神が私たち人間に対して取られている姿勢"そのものではないでしょうか。

 その証拠に36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と話されます。つまり、"今すぐにそう成りなさいということではない"ことが分かります。そこでイエスの言う言葉を実現させるためには、次の37節から記述する「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも・・・赦しなさい・・・秤で量り返される」と教えているように、イエスは冒頭で話したような人になるためには、"このようにすれば、あなたがたも実現可能に成ります"とその道理を話されているのです。

 ご自身の選ばれた貧しい弟子たち、ただ僕として従わせるのではなく、寵愛し、懇切丁寧に弟子たる者への道、イエスの示される道を共に歩みながら教えられるのです。その教えは、私たちに向けて語られています。

参考:(第一朗読:サムエル上26・2,7ー9,12-13,22-23)・(第二朗読:一コリント15・45-49)


2022年02月12日の聖書の言葉

2月13日 年間第6主日(ルカ6:17, 20-26)

 そのとき、イエスは十二人と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。

 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
   今笑っている人々は、不幸である、
   あなたがたは悲しみ泣くようになる。

 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 お気づきだと思いますが、マタイ福音書五章の真福八端と呼ばれる並行箇所です。しかし、このルカ福音書では、マタイと異なり話されている場所が違います。山上ではなく平地で話しています。またルカ福音はマタイ福音が山上で説教したことを三章も使って記述するのに対して、たった30節だけで済ませます。

 さて次にイエスは、どの様な状況の中で誰に対して話しておられるかを見ます。今日の福音の初めに「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた」と言われます。そこにはユダヤ人のみならず、異邦人もその民衆の中に含まれていたことが解ります。この群衆はマタイ福音にも記述されています。この箇所のマタイ福音と異なるルカ福音の特徴は、貧しい人々に話される神からの"祝福のメッセージ"です。

 ここでいう"貧しい人"とは、誰を指して言っているのか。それはイエスが話し始める時「弟子たちを見て言われた」とある様に、まず第一番目の対象者は弟子たちであることが解ります。しかし、その場にいたのは弟子たちだけではありません。ユダヤ全土から、ティルス、シドンからも来ていました。ということは"イエスの教えを聞こうとして集まって来た大勢の人々"です。彼らの中には、イエスの言葉を聞いて実践するために来た人々もいたでしょう。そして第三番目は、弟子たちや大勢の群衆たちの延長線上にいる人々、つまり、この福音を読んでいる人、聞いている私たちもいます。

 さて福音の中に四つの「幸い」と四つの「不幸」が、明確に対峙して述べられています。さらに「幸い」と「不幸」と言われる②「飢えて・・」「満腹・・」と③「泣いて・・」「笑って・・」の頭に「今」という言葉をつけ加えることで、よりリアルに伝えようとします。「今」がついていない箇所は、すでに神の国を受けているから幸いであり、そしてすでに受ける慰めがないから不幸とされるのです。

 この様に明確に言葉を並べて比較しながら話すことで、聞いている人々には、聴きやすく解りやすくなるのでしょう。この様にイエスは、人々にみ言葉を丁寧に優しく教えられています。それはまたみ言葉を伝える者への指南書とも受け取れるでしょう。「今」、イエスの声に耳を傾けることは弟子たちにとって、集まった人々にとって幸いとなる、不幸となる条件ですと教えています。

 自分の価値観優先の生き方から"み言葉優先の生き方"になる様に心がけてみませんか。きっと何か変化があるかもしれません。

参考:(第一朗読:エレミヤ17・5-8)・(第二朗読:一コリント15・12,16-20)


2022年02月05日の聖書の言葉

2月6日 年間第5主日(ルカ5:1ー11)

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 聖書の中でイエスの宣教活動の中心であったガリラヤ地方、その真ん中に位置するのが今日の舞台となる湖です。福音書の中でその湖は、ガリラヤ湖、ゲネサレト湖、ティベリアス湖と名前が異なります。ガリラヤ湖とは、ヘブライ語からの呼称です。ティベリアス湖という呼称は、ローマ帝国の統治時代に使った呼び方です。そして今日のルカ福音書のゲネサレト湖は、当時、湖の西側にあった平原地帯ゲネサレトからとった呼称と言われます。また、旧約聖書の民数記、ヨシュア記ではキネレト湖とも呼ばれています。いずれも同じ湖ですが、執筆した年代によって、福音史家によってそれぞれ異なっているのです。

 さてイエスは大勢の人々を教え、慰め、癒していた為、"どこにも行かないで欲しい"という人々の愛着を後に、ゲネサレト湖畔まで来ました。ここにもイエスの教え、慰め、癒しに与りたいと集まった群衆のために、イエスは二艘あった舟の一艘のシモンの舟に乗り、岸から少し離れた所まで漕がせ、人々に向かって話したと記しています。

 イエスは、自然の原理現象をうまく利用し海岸から離れ浜に向かって話します。すると海からの風に声が乗り、浜にいる人に声が届くのです。話し終えるとイエスは、シモンに向かって「沖に出て網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。それを聞いたシモンは"無理ですよ、先生。私たちは漁で生計を立てている者ですよ。普通、漁は夜中から明け方にかけてするので、太陽が昇ってからしませんよ"と思ったでしょう。しかし、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と半信半疑ながらイエスの風貌、人を癒すミラクルパワーの持ち主だから、イエスを敬って応えたと思います。

 ところが網を降ろすと「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」。慌てたシモンは他の仲間に合図して呼び寄せました。すると二艘の舟とも沈みそうになる程、魚が獲れたのです。この現実、この大漁にシモンは、イエスの言動が尋常でない事を体感したのです。体感したシモンは、イエスに畏敬を感じ「主よ、私から離れて下さい。私は罪深いものです」と言葉が出た。シモンも他の者もこの現実を認め、全てを捨てイエスに従う者となるのです。

 "イエスの呼びかけ"、しかし、忙しい現代において気づくのが難しくなっています。それはネット社会の影響が強いと思います。これもフランシスコ教皇の語る"無関心のグローバル化"なのでしょうか。不思議なこと、その不思議に気づいたら、思い巡らしてみませんか。その出会いの中に何かが観えてきますよ。

参考:(第一朗読:イザヤ6・1-2a、3-8)・(第二朗読:一コリント15・1-11)


2022年02月04日の聖書の言葉

2月5日 日本26聖人殉教者 (マタイ28:16ー20)

 そのとき、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の箇所はイエスの復活後、弟子の11人に出現された場面です。失意に暮れた弟子たちを励ますために準備されたイエスの言葉ではありません。神のご計画を実現するために、これから始まる弟子たちの言動を再教育するため、生前彼らに告げていたことの実現です。そしてその再会場所は、ガリラヤで弟子たちと初めて出会ったあの"出会いの場・原点"、そこに行くように指示されたのです。弟子たちは、その場所でイエスに出会い、ひれ伏したとあります。

 殆どの弟子たちは、すでに復活したイエスに出会っていましたが、再度、記念すべき出会いの場所でもう一度出会う事で、それまで以上に畏怖を感じさせるからでしょう。しかし「疑う者もいた」とあります。再度イエスを目前にしながら、まだ疑う弟子がいた・・・。この意図する言葉は何でしょうか。真にこれこそ時代を超え、現代に届ける言葉ではないでしょうか。いつの時代であっても洗礼を受けた人が、信仰を深め、主の為に喜んで活動した者たちばかりでは無かった。つまり、自分にとって都合の良い神への信仰だったという事でしょう。

 そんな私たちに向かって「私は天と地の一切の権能を授かっている・・・父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と復活のイエスの力強い言葉が、心に響きます。不甲斐ない、意気地のない者である私たちに、弟子たちを通して"あえて"この言葉を贈って下さったのです。

 その言葉が今日祝う"日本26聖人殉教者"の祝日に読まれる意義は、殉教者一人ひとりの生き方にその真髄を見る事ができるからでしょう。特に、京都から長崎の西坂の丘までの道、26聖人の足跡を歩かれた方には、何をイエスが伝えたかったか微かに聞こえて来るでしょう。26聖人殉教者は、神の言葉を、イエスの生涯の出来事を通して"真理の言葉"である事を最後まで彼らの生き様で貫かれたのです。それを目の当たりにした当時の大勢の人々は、彼らの姿を見て洗礼に授かった方が少なくなかったのです。さらに不条理な当時の棄教への凄絶な弾圧に耐え忍びつつ、命を捧げた人々も数知れない程出ていることが、日本キリシタン殉教の史実として残されています。

 今日の福音から、イエスが弟子たちに言った最後の言葉を心に銘記しなさいと殉教者を通して伝わってくるでしょう。まだご自分の信仰に迷っておられる方、これから信仰を考えておられる方、是非、この日を機に京都から長崎への道を歩んで見ませんか。必ず、聖人たちからメッセージを預かるでしょう。

参考:(第一朗読:ガラテヤ2・19-20)


2022年02月01日の聖書の言葉

2月2日 主の奉献 (ルカ2:22ー40)

 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり

   この僕を安らかに去らせてくださいます。

   わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

   これは万民のために整えてくださった救いで、

   異邦人を照らす啓示の光、

   あなたの民イスラエルの誉れです。」

 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、イエスを神の子として捧げる為にマリアとヨセフが、神殿に詣でた場面です。さて、イエスの誕生後「律法で定められている清めの期間が過ぎたとき」とありますが、その清めの期間とは、イスラエルの慣習で"当時律法で決められた事"をただ励行しただけとして、深く考えず読んでいました。しかし、それは旧約聖書を無視した身勝手なみ言葉の解釈に繋がることに気づかされました。

 そこでモーセの律法に定められた箇所を調べますと、確かにあります。レビ記12章、そこには詳細に記述されています。おそらくマリアとヨセフは、イエスの誕生後33日から66日後の間のその日、清めの期間を終えたのでしょう。そして、初子イエスが「主の為に聖別される」ことを願って神様に捧げる為、エルサレムに上られたのです。当時彼らは、ナザレに住んでおり直線距離にして約120km離れた神殿まで徒歩で詣でたのです。母マリアと父ヨセフは、代わる代わるイエスを抱えながらエルサレムまで歩かれたでしょう。

 このように旧約聖書を紐解きながら当時の情景を想像すると臨場感が一層湧き上がります。そして神殿に彼らが到着した時、シメオンと出会います。続いて女預言者アンナにも出会いました。マリアとヨセフにとって、"喜びの出会い"よりも"驚きの出会い"だったでしょう。両親が律法に従い"いけにえ"を捧げようとした時、いきなりシメオンが彼らの側にやってきてイエスを抱きかかえ、マリアに「この子は反対を受けるしるし、あなた自身も剣で心を刺し貫かれます・・・」と。また女預言者アンナは"幼子イエスのことを人々に話した"とあります。シメオンが、アンナが、イエスに対して話した言葉は、ベツレヘムでの羊飼いたち、東方の学者たちと同様に驚きと喜びの言葉でした。マリアはこの出来事を心に納め、これから先、思い巡らす大切な出会いになるのです。

 イエスの奉献、私たちは目に見えることだけを現実だと思いがちですが、目に見えない現実を知ること、同時に目に見えない現実の方が、いかに大切であるかを知ることなのです。今日お祝いするイエスの奉献の祝日、特にマリアとヨセフの姿から「信仰、信じること」は、一朝一夕でないことを感じさせられます。つまり、洗礼を受けたから私の信仰は大丈夫ではなく、これからが信仰生活の始まりなのです。なぜなら目に見えない神を「信じること」は、心の目と心の耳を育まなければならないからです。今日もう一度、マリアとヨセフの姿をあなたの心の目で見て、彼らの声を心の耳でそっと聴いてみませんか。

参考:(第一朗読:マラキ3・1-4)