今日の福音箇所は、イエスのみ旨、否、神のみ旨であるすべての民へ、神のみ言葉を宣べ伝えること、それが弟子たちによって"限られた民"にだけへと変えられることへの注意のように感じます。つまり、弟子たちは確かに、イエスの弟子として、イエスに従いイエスと共に生活しています。そうした環境の中で生活する弟子たちは、自分たちとイエスの繋がりは切っても切れない間柄、何故なら自分たちはイエスに対し献身的に仕えており、イエスもその自分たちを認めています。だから「イエスの名を使う」ことができるのは、自分たち以外の者であってはならないのです。そうした弟子たちの中で自然に作られていったイエスに対する思い込み、奢り、プライド、そのことに対してイエスは、弟子たちに気づいて欲しかった。イエスご自身の名は、弟子たちの管理下にあるのではなく、弟子たちこそがイエスの名の下にあること、その事実を弟子たちが認識していなかったからです。そこでイエスは、ご自分との繋がりをつまずかせるものが、何かを地獄の譬えを持って語られたのです。
何故地獄の譬えを用いられたのか、それはイエスご自身、どうしても弟子たちに神との断絶を避けて欲しい、間違った決断をして永遠の滅亡を招くようになって欲しくない、つまり、"避けさせる手段"であったからです。
さてこの箇所は、終末論で学んだ特別な箇所であることを思い出しました。「裁き、審判」今日の福音箇所を読まれた方は、すぐにお気づきになられていると思います。先の箇所で永遠の命を受けるためには、つまり、救われるためには何をしたらいいですか。との問いに対してイエスは「私に従いなさい」と言われます。"従うか従わないか、信じるか信じないか"、それは神の国のために決断するかしないかによって、その人の行く末がかかっていると言われています。この箇所に基づいているのが教義の中にある「私審判」(死後直ちに受けるもので永遠の賞罰になる)と「公審判」(世の終わりにすべての人が公に受けるもので、神の計画がどのように実現されたか、その評価がされる)であることを学びました。また聖書の中で「裁き、審判」が譬えを用いるのは、それらを表現しにくいからと言われます。何故なら裁きは、取り返しがつかないものであり、裁判官によって裁かれることではなく、当人の決断によるものだからです。正直、この箇所を終末論で学んだことは、良かった反面、いつも良心から恐怖心を煽られる根源になっていることも事実です。
あなたはどう感じられていますか。
さてフィリッポ・カイサリア地方からガリラヤ地方を通ってカファルナウムに戻ってきたイエスと弟子たち。帰路の途上、イエスは人に気づかれたくなかったとある。何故なのだろうか。聖書には、弟子たちにご自身の受難と死について話されたからとある。でもどうしてだろう。ここも不思議な箇所である。弟子たちはイエスに尋ねることを恐れていたと記述されている。しかし、帰還途中の道で会う人々にそれを知るすべはない。聖書解釈本には、次のように記されている。「群衆との断絶を意図したからではなく、重要な受難の問題に関する弟子たちの教育に力を集中するため」とある。ここにも弟子たちへの"イエスの思い"とは反対に、ただ弟子達は"受難予告"の意味について尋ねることを「恐れた」と記述されているように彼らの"イエスの思い"に対する無理解が強調される。そのような思いを引きずって家に戻ったイエスは、弟子たちへ真っ先に質問する「途中で何を議論していたのか」と。そこでイエスは、「一番先になりたい者は、・・・・すべての人に仕えるものになれ」と言う。
イエスの言う「仕える」とは、すべての人に奉仕することであり、全ての人の一番下の者・奴隷となることである。そしてさらにイエスは、子供の手を取って「このような子供を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、それはまた私を遣わされた方を受け入れると語られた。ここからイエスに従うとは、イエスに「仕える」こと、「受け入れる」とは、すべての人に仕え、すべての人を受け入れることなのである。なぜならイエスご自身がその目的のために十字架につけられるからである。
現在社会において、このイエスの言葉を真摯に受け止め、信仰生活をされる大勢の方々がおられることに感動と敬意を表する。しかしその一方で、この方々にとって有難迷惑なことが教会内で起こっていることも聞かされる。人間とは何処の世界も皆同じだと思われることに異論はないが、少数の方の間違った言動で普遍化されることに疑問を感じる。つまり、真摯な信仰生活者の奉仕の精神からなる言動に対する"嫉妬、妬み"からなる誹謗中傷、現在ではSNSによる拡散で正直、善の行為が損なわれる、否、崩壊させられている。み言葉は神と人のつながりを深め、人との繋がりを広げるものと思いきや、現実はどこか間違った方向に向いていないだろうか。あなたの教会は、大丈夫ですか。
今日の福音に至るまでのイエスとその周りの人々の態度を見るとき、はっきりと見えて来るものに気づかされる。それはイエスがカファルナウムでの宣教から離れ、ティルス、シドン、デカポリス地方、そしてガリラヤ湖・ベトサイダ、フィリポ・カイサリア地方への宣教移動である。それらの地方や町々は、ユダヤ人の町と異邦人の町に分かれている。特徴的なのは、異邦人の町々でのイエスは、率先して癒しを行い、また奇跡を行なっている。それに対してユダヤ人の町では、ファリサイ派の人からイエスは「天からのしるし」を要求される。そして弟子に至っては、未だパンの奇跡の意味を理解出来ない。イエスは権力者・支配者から解放する力を持つ有力な次期リーダーとしか考えていない。一方弟子たちは、イエスが十字架に架けられて命を捧げるメシアだと、誰一人思っていない。そんな折、イエスは弟子たちに"真のメシア"を理解させるために、ご自身がこれから歩む道、受難・死について話された。ところが弟子たちは、「とんでもない。そんなことはありえない」と一蹴。その弟子の代表ペトロは、イエスを諌め始める。
そこでイエスは、弟子たちを前にペトロに向かって「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られた。さらに群衆も集めて語られたのが「私の後に従いたいものは、自分を捨て・・・」と。この自分とは、人の心の内であり、人そのものである。つまり、自分自身の心の思い・損得感情を指している。イエスはその計算高い自分を捨てなさいと。
またイエスの言う"自分の十字架を担う"とは、人が生まれながら背負っている「神の人に対する思い」であって、その神の思いに生きる事こそ、イエスに従うことであり、自分の命を救うことになると言われるのである。
ではその「神の思い」とは何か。それが分かっていれば、弟子たちもペトロもイエスに叱られることはなかった。なぜイエスは、「神の思い」、それがなんであるかを弟子たちに教えないのか。その理由は、人が知識として学ぶことではなく、生活を通して体を使って体得するものだからである。まず祈りによる「神との深い交わり」、それを通して得られる神の御計画を認知し、その認知を生活の中で実践する。その積み重ねから徐々に"神の思い"を悟らされるのでしょう。
信仰、それは真に「行いが伴わなければ、死んだものです」と言うことである。では何でも実践していれば、それで良いのか。確かに、実践することは大切である。しかし、実践する最中で私利私欲の心が潜んでいれば、神は思いもよらない方法で、その善悪を知らされる。したがって、行いの善悪を祈りにおいて識別することを求められるのである。
この箇所は、イエスの宣教地移動で地理的場所が、非常に不可解であること。聖書を読む際、イエスが今どこにいて、どのような状況下で、誰に話しているのか、注視する者にとって、非常に不思議な箇所である。地中海沿岸の町ティルスからシドン、そしてデカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖への移動の記述である。聖書注釈書でも、聖書学者雨宮師も同じことを書いている。何故このような記述になったのか。聖書注解書では、「イエスが異邦人の地であるデカポリスで、耳の聞けなく舌の回らない人を癒した」ことを伝えたいこと。また雨宮師は、「ユダヤ人と異邦人」、つまり「昔の人の言い伝えに固執する人達とイエスを受け入れる人達との比較」目的から、こうした記述をあえてしていると言われる。いずれにしてもマルコ福音史家は、何かを伝えたいのである。
今日の箇所でイエスは、異邦人であれ、ユダヤ人であれ、その人の信仰に応えて、奇跡を実行している。なぜなら奇跡のしるし・神の愛は人を分け隔てしない平等な愛のしるしだからである。したがって「イエスの行う奇跡は神の力とその愛を示すしるしであり神への招きである」 (雨宮師) と言う。
地理的問題はさておき、イエスの今日の奇跡には人を選ばない神の愛、万民に神の愛が向けられている。と同時にすべての人が望めば奇跡さえも実行されることに喜びを感じる箇所である。耳の聞こえない人、口のきけない人を話せるようにされる神の力。それは現代社会にも同様に向けられている。希望の光を見えなくしている厳しい現代において、今日のイエスは何を語ってくれるのか。とかくルールに縛られがちな生活を強いられている現代人にあって、縛られるあまり大切な"人への思いやり、人との分かち合い、人との共同作業など"疎かになっていないだろうか。共通理解するためには、日々の生活を通して地道にこれらを実践することが、新たな力、新たな創造、新たな作業・実践へと繋がるのである。相手の言葉を無視、相手との会話を無視、共同作業・貢献・協力無視では、明日への意欲、希望、喜びを感じることはまずありえない。
自分の聞こえなかったものは何、自分が言葉にできなかったこと、話せなかったことは何ですか。正直に、イエスに向かって自分の中にある「足枷である自尊心」と向き合い、大変ですが、漸次取り除く作業を始めましょう。それらが耳を塞ぎ、口をきけないものにしているのだから。自己の変化によって、周りも変わる。自然も一緒になって変貌するから。