マルコ福音書の中で今日の福音は、大切な箇所と言われています。その理由は、この箇所から"神の本当のみ旨"がなんであるか。"神の本当の清さ"が、なんであるかと言うことを指摘されているからです。この重要な宣言を通してユダヤ教のそれまでの枠を撤廃し、律法に従わない異邦人にも教会に入る道を開かれたと言うことです。もうひとつ大切なことは、イエスが初めて預言者イザヤの書を用いてファリサイ派と律法学者の人々に答えていることなのです。ファリサイ派と律法学者の人々は、弟子たちに対して「昔の人の言い伝え」をすべての判断基準として対象となるものに対して批判するのに、イエスは「神の意志」をすべての判断の基準として考えていることです。イエスの指摘は、ファリサイ派と律法学者の人々にとって、"自分たちこそ聖書の教え、つまり神の意志に基づいて生活している"と自負していた彼らの思い込みです。彼らの自負に基づく言動に対して、イエスは「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言いました。この言葉は、それまでのファリサイ派と律法学者の人々の立場を根底から覆すものとなったのです。
なぜそうなってしまったのか。紀元前にユダヤ教が誕生し、律法遵守が強調されました。そのため律法を遵守する細則が、事あるごとに作られ、それらの集大成となったものが「昔の人の言い伝え」となったのです。したがって、律法を大切にするユダヤ教の人、特にファリサイ派や律法学者の人々は、「昔の人の言い伝え」を大切にし、彼らの生活の指針となっていったのです。つまり、ファリサイ派や律法学者の人々は、決していい加減な人々ではなく、むしろ聖書の教えを日々の生活の中で生かすために努めていた熱心な信者であったと言えるでしょう。ただそのような熱心な人々に対して、イエスが指摘されたのは、彼らの熱心さからあまりにも些細な規則にこだわりすぎてしまった。その結果、彼らは大切な「神の掟」の中心である"神のみ旨・愛"をおざなりにしてしまっていた、否、忘れてしまっていたからです。イエスは、常に外面的な要因からだけではなく、常に内面的な要因、言い換えれば、祭儀的な観点からではなく、倫理・道徳的な視点から見直して、そこを深めるようにと指摘されたのです。
最後に「昔の人の言い伝え」を遵守することだけではなく「人の心から外に出るものこそ人を汚すものである」ことを指摘されます。それは人の心の"内的清さ"の大切な事を要求されるのです。心の清さ、私たち人間にとって大切なことは、人の為の人になれる事だと言われますが、自己愛への執着から離れられない者にとって、非常に難しい課題であるでしょう。しかし、日々の生活の中で常に意識することによって、漸次、神のみ旨に近づいていくことを信じ、努めましょう。頑ななファリサイ派や律法学者のように終わらないために。
イエスの言葉、それに対してユダヤ人の「実にひどい話だ」と"つぶやき"、多くの弟子たちがイエスから離れ去っていったと記述されます。初めは群衆、そしてユダヤ人、最後に弟子たち、その弟子たちは自分たちの要求や主張が満たされなかった為、イエスから去って行くのです。パンの奇跡の後、大勢の群衆が、ユダヤ人が、そして弟子たちに変わった呼び名の人々。彼らはイエスと出会ってからも自分の知識に固執していました。彼らの姿勢、要求、そして自分の主張が満たされない時、相手を誹謗中傷する"つぶやき"、それは彼らの自尊心を、プライドを守る手段として取られたのです。しかし、どうしてこれまでイエスに従ってきた人々が、それほどまでに"つぶやく"ことになったのか。それは「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。・・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言い放った言葉が、発端になっています。話した相手は、パンの奇跡にも立ち会ったイエスに従っていた弟子たちです。なぜ弟子たちは、イエスの言葉に・・・。
64節のイエスの言葉から、私の言葉を信じるか信じないかによって、人が二つに区別されることを宣告されます。イエスが伝えようとする真理は、言葉の受け取る側の主体性、自由に委ねられると言われます。またイエスは神と同じすべてを見通す力を持っています。また聖霊の働きがなければ、誰もイエスを信じると告白できないとも言われるのです。なぜイエスは、このような理解に苦しむ言葉をあえて弟子に向かって発言されたのでしょうか。
パンの奇跡の場面に戻ってみましょう。ここで大勢の群衆と弟子たちは、イエスからパンと魚を十分に頂戴しました。それによって彼らは満足しました。しかし、イエスの思いとは随分かけ離れていたのです。「人はパンだけで腹を満たすことが大切な事ではなく、その内実であるイエス・キリストの贖罪と復活信仰を持って、キリストの体にあずかること、それは聖霊の働きによってのみ可能となるが、これに対する信仰がなければ、いくらパンを食べても何の役にも立たないと言われるのです」(新共同訳聖書注解書)。またイエスを裏切る者の代表として、イスカリオテのユダが象徴的に扱われています。それは十二使徒の一人であってもイエスを裏切ることになったということです。それと同じように現代社会でも、熱心で真面目な人と思い込んでいた方であっても去って行かれる方もいるということを示唆しています。見えない神の存在をイエスのみ言葉と"しるし"を通して「信じる」者になりなさいということでしょう。
今日の福音箇所は、マグニフィカト・聖母の賛歌(46-55)が中心となっています。聖書学者雨宮師によるとこの賛歌は、二つの段落に分けられると言われます。①47-50節、「救い主である神と私(マリア)との関係」を記述。②51-55節「主の憐れみは主を畏れるアブラハムとその子孫に代々に限りなくとこしえに及ぶ」と記述。そこから「『主のはしため』の個人的な体験は、人類に共通の普遍的な体験の代表例です」と言われます。
この賛歌は、マリアご自身の体験から、神の憐れみは代々に限りなく、主を畏れるものに及ぶことを主張します。つまり、マリアの賛歌は「主の憐れみ」が主題になっていることです。さてマリアが、これほどの賛歌を歌うその契機は、何であったのか。それがこの賛歌の前に記述されています。それは、親戚のエリザベトとの出会いです。"出会い"といっても、ここでは偶然の出会いではないことが自明です。しかし、エリザベトがマリアと会って"聖霊"に満たされると言う大きな変化がもたらされるのです。したがって、エリザベトとマリアの出会いは、普通の出会いではなく、"聖霊の働き"が伴った出会いなのです。それによって、彼女たちの交わされる挨拶は、特別な"神の祝福"を運ぶ挨拶なのです。エリザベトは、マリアが主のお母様になることを認知できるのも"聖霊の働き"によるものなのです。そこでマリアから挨拶を受けたエリザベトは、すでに大きくなっていたご自身の胎内の子が、喜び踊ったと記述されます。それはマリアにも身ごもっている子が「救い主」であることを確信させる"しるし"となったのです。この驚き、この喜びは、「我を忘れる」程の喜びなのです。これが出来るのは、自分の全てを投げ出しても、それを確実に受け止めてくれる方がいる、そのことをハッキリと確信できるから、エリザベト自身とることのできた表現だったのです。
"我を忘れる"といった単純で素朴な時代は、いつの日か知らないうちに私たちの中から消えてしまっていないだろうか。現在は我を忘れる程、喜び踊るようなことを見出すのが、難しい冷たい時代になっていないでしょうか。現代社会に生きる私たちにとって、今日のエリザベトとマリアの出会い、その喜びを共有することによって、私たちにも信仰とは何か、神の憐れみとは何かに気づかされ"我を忘れる"喜びを感じることが出来ますように。
ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から
今日の福音の中では、ユダヤ人のイエスに対する敵対性をよく表現しているのは、「つぶやき」この言葉です。
"つぶやく"とは、小さな声で独り言を言うことですが、今日の箇所では、"ユダヤ人たちの要求や主張が満たされていない"との意味を含蓄した言葉として使われています。このようにユダヤ人に見られる自分の知識にだけ固執した姿勢、そして自己の要求、主張が満たされない時、相手への誹謗中傷を"つぶやき"として発せられる実態、これらは私たちにも身に覚えのあることではないでしょうか。自分の培った固定観念を崩す、離れる、そして新たに正しいことへ是正すると理屈で解っていたとしても、大変難しいことなのです。ましてやイエスの言葉を受け入れることは、心底から信仰の心を持たなければ素直に受け入れる事はできないでしょう。しかし、イエスは断言されます。「はっきり言っておく。信じるものは永遠の命を得ている。私は命のパンである」と。
先ず、私の、あなたの固定観念への執着から離脱することができますように。