「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。ここでいう命とは"自我"でないことは確かです。なぜなら良い羊飼いとはイエスであって、俗人を指していません。つまり、イエスは羊であるすべての人間のためにご自身の命を捨てました。しかも私たち人間の罪を赦し、罪を贖い永遠の命へ導くために、ご自身の命を神に捧げてくださったのです。それは、決してご自身の命を無碍に捨てたのではなく、私たち人間が罪から赦され、罪を贖うためでした。さらにその罪人を永遠の命へ導くためでした。
何故そうするのか、そうされたのか、信仰を持っている者でも理解に苦しむところです。この点が他の宗教と完全に異なる点なのです。福音・Good Newsよき知らせとは、他の宗教でも同様のものがあります。しかし、異なる点は、イエス・キリストは、言葉だけで終わらなかったということです。
イエス・キリストは"あなた方が永遠の命を受けるため、福音を信じなさい。信じることによって永遠の命に預かる。またあなた方の罪が、信じることによって赦される"。なぜ対価もなしに唯"信じる"だけで罪が赦されるのでしょうか。その理由が、イエスの生涯で明かされるのが福音書であります。何故ならこの福音書は、真理である神の言葉を認めたものであり、神の望みをイエスご自身が身を持って成就されました。
み言葉は、常に日々の生活の中で活かされ、活かすものです。しかし、活かすためには、実践が伴います。どんな小さなことでも、毎日、まず自分にできることから始めませんか。イエスを信じるために。
ルカ福音書でイエスの顕現物語の記述は、非常にその描写が素晴らしいことから絵画として良く知られています。したがって、イエスの復活物語を知らない人でも、なんとなく想像できるのです。イエスという偉大なる師を亡くし、肩を落として故郷エマオへ帰る道すがら、気づかないうちにイエスが共に歩み、彼らの悩みと失望に寄り添いながら、復活したご自身をその弟子たちに現わされた。復活のイエスと出会い喜んだ二人は、再度エルサレムの他の弟子たちのところへ戻った。そしてその弟子二人が、自分たちの身に起こった出来事を話していた最中、イエスが彼らの真ん中に出現し「あなた方に平和があるように」と言われた。弟子たちはそれまでも別の場所でそれぞれイエスと出会ったが、みんなと一緒の時に出会ったのは、初めてだったのだろう。彼らはそれまでの復活したイエスとの出会いと同様、やはり驚きと同時に恐れを感じていた。そんな彼らの姿を見たイエスは「恐れないで私を見なさい、よ~く見なさい。まだ疑っているなら私に触れて見なさい」と言われた。それでも不思議がっていた弟子たちを見て「何か食べ物があるか」と言って彼らの前で食した。この非現実的な顕現と現実的なものとするイエスの言動とその顕現。このイエスの復活を確認し、その現場の立会人・イエス復活の立証者となるのは、イエスが愛し、育んできた不信仰な弟子たちだった。しかし、この日、この時から不信仰であった弟子たちは、イエスによって変えられました。「信じない者から、信じる者」に変えられたのです。変えられた弟子たちは、イエスが生前話していた言葉の一つ一つを想起し、話されたすべての言葉が、紛れもない真実であったことを確認したのです。それによって後に彼らは、イエスが生前宣べ伝えた「神のみ言葉」に確信を持ち、すべての民に告げ知らせる力と勇気と忍耐力を備えたのです。イエスの復活に確証を得た直弟子たち、その同延長線上にイエス・キリストの洗礼を受けた者・私たちも同じ確証を持ち、喜びの福音を宣べ伝える義務が与えられています。
まず初めにイエス様のご復活・顕現の箇所は、ヨハネ福音史家が本章の31節に記しているように「イエスは神の子メシアであると信じるため」、つまり"本書(ヨハネ福音書)の目的"が、イエスの顕現物語を究極目的にしていることです。また、その顕現物語に共通していることは、まさにこれこそ"神のみ業"を表す非現実的な描写と現実的な描写が的確に記され、かつ対峙して記されていることです。そのことに気づけば、イエスが弟子達を通してご自身が神の子であり、まさに復活が紛れもない事実であると伝えていることを理解できるでしょう。その情景をイエスといつも共に過ごした福音史家ヨハネが、顕現物語に認めた訳を深読すると納得できるだろう。これを前提にこの箇所を読むと先ず、イエス様が埋葬された日の翌朝早く、婦人達が墓に行った。そしてその墓には、イエスの遺体ではなくイエスご自身が婦人のそばに立って、復活していることを知らせた。その日の夕刻、またイエスは墓に来なかった弟子達のところに自ら出向いて行き「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。この記述からも、どれほどイエスが弟子達を、否、ご自分を信じる者達を愛しておられるかを察することができます。さらに彼らに息を吹き「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」と言われます。ご自分を見捨てた弟子たちに対して、このような言葉を普通の人は言えないですね。これこそ"信じられない"ことではないでしょうか。信頼していた者から裏切られ、無視され、罵られ、挙げ句の果て見捨てられた。にもかかわらず「主よ、彼らは何も知らないのです」とまるで何もなかったかのように言語する姿勢から寵愛、否、溺愛するように、今も弟子達を通して私たちにも同じ哀れみを下さるのです。そんな折、弟子の一人トマスは「あの方の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、私は決して信じない」といった。彼はまだ復活のイエスに出会っていなかった。そのため他の弟子達・仲間たちに対して嫉妬、疎外感、孤立を感じた。トマスは"自分も同じ裏切り者、しかし自分はまだ出会っていないし、赦されてもいない"。そんな思いが、トマスの心の中から湧き上がり、咄嗟に口から飛び出たのでしょう。それを知ったイエスは、翌週弟子たちと一緒にいたトマスの目の前に現れた。トマスは期待していたものの、"まさか"の"信じられない"ことの現実に驚愕と同時に、イエスの人知を遥かに超えた愛の深さに衝撃とも言える畏敬を感じたのでしょう。そこでトマスは慌てふためき、イエスに対して嘘偽りのない真の言葉「私の主、私の神よ」と、心の底から発した"叫び"だったのでしょう。このトマスに見せたイエスの同じ愛は、今日も私たちにも現して下さっていることを"あなたは信じていますか"。
マルコ福音書におけるイエスの最初の復活場面の記述です。安息日が終わってイエスに仕えていた婦人達は、生前イエスを敬い慕っていた。否、それ以上に彼女らはイエスという人を愛していた。それゆえにイエスのご遺体に香油を塗り清潔に保ちたいので準備していた。そして、夜が明け、日が昇るや否や墓に向かった。ところが墓に着くと心配していた墓の入口を閉じていた大きな石は、すでに入口の横に転がっていた。「目を上げてみると」と記しているように、墓は小高い丘か山の上にあったと思われる。そして、取り除かれた石を確認すると、やれやれと胸をなでおろしたのは束の間「うぅむ?」誰か墓の中にいるぞ?その誰かが、吃驚しながら恐る恐る墓の中に入ってきた婦人達に向かって"イエスは復活したよ、あなた方のボスのペトロに伝えなさい。そして、復活したイエスはガリラヤであなた方を待っていることも"と。この出来事に遭遇した婦人達の慌てふためく様子が、手に取るように描写されています。驚愕から驚喜に変化していく婦人達、その状況は宙に舞い上げられたような状態ではなかったでしょうか。そんな姿が目に浮かんでくる復活の出来事の場面です。しかし、この信じられない出来事は、婦人達の目の前で確かな現実として起こったのです。復活(甦ってくる有様)を見て確認できないから信じられなくても、今のこの現実に出会う時、「信じるしかない」のではないだろうか。イエスとの出会い、この復活の出来事、それが今日、私達にも何かを教えているのではないでしょうか。