「目を覚ましていなさい」と言われるイエスの言葉は、福音史家によって少し意味合いが異なっているように思います。
「目を覚ましていなさい」とは、常に、四六時中意識しているということではなく、日々の生活の中でいつも愛の実践をしなさいということでもなく、いつも祈りなさいということでもありません。
ここで問われているのは、仏教の教えでいうところの「色即是空(この世の全てのものは、みな虚しく消え去る)」。
つまり、この世のものは儚く消え去っていくが、神の言葉は決して滅びることがありません。
だから目に見えるものに身も心も捕らわれないで、本当に確かなもの、決して滅びないものに心の目を、しっかりと向けていなさいということです。
あなたの心の目は、いつも目覚めていますか。
イエスはご自身が栄光の座に着くとき、人々に正しい裁きを行われると言われます。
そして、その裁きの基準は、愛の行為がその人にあったかなかったか。
またその対象は「兄弟たち」あるいは「最も小さい者たち」であったかどうかです。
なぜならそれは、イエスへの全き信頼、信仰のしるしだからです。
つまり、それがイエスの望みであり、願いだからなのです。
またその愛の行為は、イエスのみ心を信じて、その救いに預かった人によるものであり、救われた者の行為が、すべてのものに対して喜んで謙虚に行われたものであったかどうか知ることが出来るのです。
なぜならイエスは、すべてのものを分け隔てなく愛される方です。
これらの教えは、イエスが、十字架を目前にして話された最後の教えなのです。
あなたに、「私に預けられたタラントンには、何がありますか。」イエスは言われます。
それぞれの力に応じて預けたと。人それぞれでしょうが、タラントンには"能力、仕事、知恵、知識、責任、環境、家庭、健康"など色々なものがあります。
そうした与えられたタレントをいかにして働かせ、活かすことができるか。
そのことが問われているようです。
一タラントン(通貨単位)は、とても大きな金額ですが、受け取った人は、預かったお金を他の人と比べて、妬んだり、卑下したりします。
また自慢したり、卑屈になったりもしています。
何れにしてもイエス様は、それぞれの能力に応じて預けられたのです。
したがって授かった人は預かった金額に対して、自分自身に預けられたタレントを十分活かして働いたかどうかが問題なのです。
あなたは神様の愛と期待の中で喜んで望み通りに働いていますか。
目を覚ましていなさいとは、どういうことでしょうか。
譬え話では、賢い5人のおとめたちは眠らずに待って、愚かな5人のおとめたちは眠ってしまったというのではありません。
10人のおとめたちは皆、花婿が来るのが遅れたので、少しウトウトしただけです。
私たちも日々の生活の中で、四六時中イエスを意識することは不可能です。
否、むしろ、意識していない方が多いでしょう。
つまり、誰でも信仰生活の中で愚かな5人のおとめたちのように、ウトウト居眠りすることをイエスは、よくご存知なのです。
しかし、賢いおとめたちと愚かなおとめたちの違いは、油を準備していなかったことだけです。
つまり、賢いおとめたちは、花婿にだけ心の目を向けていた。
一方愚かなおとめたちは、花婿以外のものにも心の目を向けていたからなのです。
あなたの心の目はどこを向いていますか。
イエスの言動には、先ず、相手の状態を肌で感じ取り、その現状をいち早くご自身で判断されて行動されていることです。
今日の福音では、イエスの教えを話されますが、人々を失望させることなく、力を与える「これが恵みだ」と相手の心に訴えるようです。
その訴え方が山上の垂訓での話し方、逆説的言い回しの教えです。
「心の貧しい人」とは、心が狭い人でも卑しい人でもなく、現在の状況に満足できない、物足りないと飢えている、求めている人のことでしょう。
「悲しむ人は幸い」ですか?そんなわけがないでしょう。
でも幸いだと言われます。どうしてですか。
悲しみは、悲しくなる要因があるからです。
その原因に気付かされる時、人は沈思黙考を学ぶでしょう。
この山上の垂訓の教えには、天の国へ迎え入れられる人を幸いと言われます。
だからそれに比べれば、現在の状況は取るに足りないものではないのか。
あなた方には天の国が準備されています。
神様の教えは、自分の心の貧しさを知り、罪多きものであることを知り、それゆえ神様の憐れみを願うことではないでしょうか。