どの掟も大切なのは「愛」です。
パウロも言います「愛がなければ、すべて虚しい」。
律法の専門家は、掟の優先順位を言わせるためにイエスに質問した。
ところがイエス様は、どれが一番ではなく「どの掟も二つの愛・掟に基づいている」と言われた。
もしかしたら私たちも"木を見て森を見ない"人になっていませんか。
忙しさに振り回されて、大切なことを忘れてしまっていませんか。
権威を持った人は、その権威で人を動かし、また動かされた人も責任を転化するため誰かを誘う。
この動きを知る時、現代にも似た動きがあるように気づかされます。
つまり、偽善行為はいつの世も同じパターンなのです。
確かに、イエス様が十字架にかけられるまでの経緯をたどる時も、同じであることに気づかされます。
さて税金納入に関するファリサイ派の試みは、イエス様と皇帝を天秤にかけて問うています。
無知な答えを期待していたのだろうか。
そうだとすれば、よほど彼らはそれ以上に無知だと言わざるを得ないでしょう。
イエス様の答えは、彼らの期待を裏切りました。
疑心暗鬼になるとき、我が"無知の知"を悟ることができますように。
神様は天国へどうぞ誰でも来てくださいと、すべての人を招いて下さいます。
それはまた、すべての人の救いをも望んでおられるのです。
ところが目に見えるもの、お金、地位や評判を第一のものとして心を奪われていると、その神様のご招待の呼びかけに気づきません。
私たちは日々の生活において、いつの間にか自分の感情や方法や知恵に全ての判断を委ねてしまっています。
少し自分の思い、考えから離れて、神様の思い、神のみ言葉に心身を委ねることができますように。
アーメン
すべての創造主である神様は、私たち人間を、この世の被造物を管理するパートナーにして下さいました。
しかし、神様は私たちに丸投げしたわけではありません。
したがって、私たち人間は、常に神様に報告、相談、連絡する必要があります。
ところが、私たちはその事を無視するだけでなく、自分の思い通りに生きる事を優先しています。
にもかかわらず、黙って忍耐してくださる神様は、私たちがいつ悔い改めるのか、じっとその時を待ってくださっているのです。
早くその神様の愛に気づきたいですね。