2025年09月06日の聖書の言葉

9月7日 年間第23主日 ルカ14・25-33

 そのとき、大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 イエスは、自分の弟子になろうとするなら覚悟をもて、と少し厳しい口調でお話されます。最初に、自分と親しいひとたちに逆らってでも、自分の命を捨てることになってでも付き従えるのが条件として示されます。つぎに、極めて不名誉な十字架刑に処せられることになっても付き従うことができること、というさらに厳しい条件が追加されます。

 イエスのお話を聴こうとして集まってきている人たちは、イエスが十字架上でお亡くなりになるとは思ってもいません。いきなり、イエスからこんな過激な条件を示されてどんな風に思ったのでしょう。普通なら、これは絶対弟子になんかなれない、と思うでしょう。

 御父の御旨を果たすために来られたイエスと同じようにできるひとなどいるはずもありません。その後のたとえ話では、物事を始める前に必要な準備を怠らないように諭されます。けれども、イエスの身の上に起こることを知らなければ、準備のしようもありません。きっと、イエスは、ご自分が担っている役割について、このようなお話を通して弟子たちに伝えておられるのでしょう。

 イエスの言葉の意味はご自分の死と復活によって初めて弟子たちにも理解できるようになります。そして、もちろん私たちも復活されたイエスの贖いによって救われています。イエスの贖いによって救われていることに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:知恵9・13-18)・(第二朗読:フィレモン9b-10、12-17)