
そのとき、イエスはニコデモに言われた。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

イエスと話しているニコデモはユダヤ教の神殿の議員なので、当然旧約聖書には通じています。そのことをよくご存じのイエスは、人の子が十字架上で死ぬことの意味をモーセが掲げた青銅の蛇(民数記21・4-9)になぞらえて話されます。
モーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤの民は、砂漠での生活に不満をもち、主やモーセに逆らうようになります。そこで、主は炎の蛇をおくって民を苦しめます。民のために主にとりなしたモーセに、主は杖に青銅の蛇を掲げるようにお命じなり、その蛇を仰ぎ見た民は蛇にかまれても命を得た、という旧約聖書のお話です。
モーセが説く主は、御自分に逆らう民へ炎の蛇をおくって厳しい裁きをくだしながら、モーセがとりなすと救いの手を差し伸べてくださいます。イエスが説く主は、「その独り子をお与えになったほど、世を愛された」主であり、私たちは十字架上のイエスを仰ぎ見ることで救われます。
イエスご自身は、「命にいたる門は狭く、その道は細い」(マタイ7・14)とか、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10・25)とか、常に厳しい言葉を口にされます。イエスの言葉は、わたしたちが主の御旨から離れた行いに慣れ親しんでいることに気付かせてくれます。
そんな私たちに、御父は「その独り子をお与えになるほど」の無制限の愛を注いでくださいます。御父の無制限の愛に触れることができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:民数記21・4b-9)・(第二朗読:フィリピ2・6-11)