
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

今日の福音で、イエスは弟子たちにお尋ねになります。「あなたたちはわたしを何者だと言うのか?」。すると、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と即答します。他の弟子たちは、その答えを口にするのをためらったかもしれません。
同じ場面のマルコ福音書やルカ福音書には、ペトロが「メシアです」と答えたとたん、ご自分がメシアであることは誰にも話さないようにと弟子たちに命じられます(マルコ8:30、ルカ9・21-22)。マタイ福音書でも、ペトロにお話になった後に、「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(マタイ16・20)と記しています。どうも大っぴらには言えない内容だったようです。
当時のユダヤの社会ではメシア(救世主)による現世における救済を望む民衆も多く、「メシアである」などと口にすれば民衆を扇動することになるからです。シモン・ペトロについては、思ったことをすぐに口にしてイエスに諫められる場面が多く残されています(マタイ16・22-23、ヨハネ13・10-11)。
シモン・ペトロは漁をしている最中にイエスから声を掛けられて即座に網をおいてイエスに付き従った、と福音書に記されています(マタイ4・18-20)。ペトロはイエスの言葉を躊躇なく受け入れて、すぐに正しいと思える行動に移せる人だったようです。純朴で行動的な人物といえば聞こえがいいのですが、考えるより先に行動してしまうので周囲からちょっと迷惑がられる人物だったのかも、などと私は勝手に想像しています。そのようなペトロにイエスが教会を託したのだと思うと、あわてんぼうの私は少しうれしくなります。
私たちもペトロのようにイエスの言葉に素直に従って行動できるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録12・1-11)・(第二朗読:2テモテ4・6-8、17-18)

そのとき、イエスは群衆に神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

福音書の中には、イエスが重病人を治される奇跡、死んだ人を生き返らせる奇跡の物語がたくさん記されています。どれも本当に大変な思いをしている人が奇跡によって救われるお話ですから、奇跡というのは本当に困ったときに救ってくださる神の御業である、と多くの方が思っておられると思います。
ところが、今日の聖書に記されているイエスの奇跡の物語は、とてもつつましい奇跡です。集まった聴衆は奇跡が起こったことに気づいていません。気がついていたのは、食べ物を配って残ったパンの屑を集めた弟子たちだけでした。同じような奇跡の物語がカナの婚礼の場面に出てきます。水が葡萄酒になったことは婚礼の招待客は誰一人気がついていません。気づいていたのは水がめに水を汲んで宴会の世話役のところへ運んで行った召し使いたちだけでした(ヨハネ2・9)。
どちらの奇跡もイエスがご自分を神の子であることを広く知らせるための徴(しるし)ではありません。でも、二つの奇跡の物語を聞いた私たちには、イエスは日常の何気ない事柄に対しても真剣に応えてくださる方なのだ、とはっきり伝わってきます。ひょっとすると、私たちの日常も気づかないまま奇跡によって助けられていることがあるのかもしれません。そんな風に思って黙想してみると、奇跡に限らず日常の中にある神のさまざまな助けや導きに気づくことができると思います。
神からの助けが私たちの日常を支えていることに気付けるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:創世記14・18-20)・(第二朗読:1コリント11・23-26)

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

三位一体の祝日で朗読される福音の中では、真理の霊(聖霊)、御父、私(イエス)の間柄をイエスがお示しになります。そのなかで、イエスは「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と断言されています。こんなことを、親に対して言える人は果たしてどれだけいるでしょう。
私たち人間ならどんなに親しい人であっても、他人に対して「あなたの持っているものはすべて、私のものである」とは言えません。他人である以上、その人のすべてを持つことは不可能です。そう考えると、イエスは普通ではないこと、人の世ではありえないことをお話になっている、と分かります。
このお話を聞いている弟子たちは、イエスの死と復活を経験していません。また、聖霊の導きも経験していません。それなのに、イエスは度々ご自分が去った後のことや、ご自分が去った後の聖霊による導きについてお話になります。弟子たちは、いったいどのような気持ちで聞いていたのでしょう?
イエスも、弟子たちがすべてを理解するとは考えてはおられません(ヨハネ16・4)。私たちが今日の福音に記されている普通ではありえないイエスの言葉を受け入れることができるとしたら、それは洗礼によって授けられた聖霊の働きでしょう。
福音の受け入れを助けてくださる聖霊に感謝を込めて、「父と子と聖霊のみ名によって」、と祈りましょう。
参考:(第一朗読:箴言8・22-31)・(第二朗読:ローマ5・1-5)

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

今日の福音箇所に出てくる「弁護者」という聞きなれない訳語は「聖霊」を示す言葉です。ですから、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」、とされた人には、聖霊が留まってくださいます。また、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とされた人には、父とイエスが共にいてくださいます。
ヨハネ福音書には、様々な言い回しでイエスと御父である神との関係が記されています。例えば、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)や、「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」(ヨハネ15・23)、などです。そして、イエスの姿が見えなくなった後、つまりイエスが天に昇られた後は、イエスではなく聖霊が御父への導き手として働いてくださる、と何度も繰り返して弟子に伝えておられます。
イエスは、弟子たちがご自分を通して御父を見ていないことに気付いておられ(ヨハネ14:8-11)、ご自分の姿が見えなくなったときに弟子たちが動揺することを心配されています。実際、何度もお話を聞いていたはずの弟子たちはイエスの十字架上での死に大いにうろたえました。
弟子たちがイエスを通して御父と出会うのは、復活したイエスと出会った後になります。イエスと過ごしていた弟子たちでさえイエスを通して御父に出会うことは出来ていなかったのです。それなのに、私たちはイエスを通して御父を見ることができています。あっ、そうだったのか、と気が付きます。これが私たちに与えられた聖霊の働きなのです。
御父へ導いてくださる聖霊の豊かな働きに感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録2・1-11)・(第二朗読:ローマ8・8-17 または 1コリント12・3b-7、12-13)