
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

今日の福音箇所に出てくる「弁護者」という聞きなれない訳語は「聖霊」を示す言葉です。ですから、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」、とされた人には、聖霊が留まってくださいます。また、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とされた人には、父とイエスが共にいてくださいます。
ヨハネ福音書には、様々な言い回しでイエスと御父である神との関係が記されています。例えば、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)や、「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」(ヨハネ15・23)、などです。そして、イエスの姿が見えなくなった後、つまりイエスが天に昇られた後は、イエスではなく聖霊が御父への導き手として働いてくださる、と何度も繰り返して弟子に伝えておられます。
イエスは、弟子たちがご自分を通して御父を見ていないことに気付いておられ(ヨハネ14:8-11)、ご自分の姿が見えなくなったときに弟子たちが動揺することを心配されています。実際、何度もお話を聞いていたはずの弟子たちはイエスの十字架上での死に大いにうろたえました。
弟子たちがイエスを通して御父と出会うのは、復活したイエスと出会った後になります。イエスと過ごしていた弟子たちでさえイエスを通して御父に出会うことは出来ていなかったのです。それなのに、私たちはイエスを通して御父を見ることができています。あっ、そうだったのか、と気が付きます。これが私たちに与えられた聖霊の働きなのです。
御父へ導いてくださる聖霊の豊かな働きに感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録2・1-11)・(第二朗読:ローマ8・8-17 または 1コリント12・3b-7、12-13)