
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。聖書には「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

今日の福音書は復活されたイエスが天に昇られて直接お話が聞けなくなる、という場面なのですが弟子たちがそのことを嘆いている様子は記されていません。それどころか弟子たちが主をほめたたえる様子は、イエスが十字架上でお亡くなりになられた時に途方に暮れて閉じこもっていた弟子たちとは大違いです。
どうして弟子たちは変われたのだろうと考えていて、復活されたイエスがエマオへ向かう弟子たちと出会って話し込まれる場面(ルカ24・13-35)を思い出しました。このイエスのさりげない出会いは私が気に入っている場面なのですが、今まではイエスに気付かないまま、イエスの御言葉の力に触れて弟子たちのこころが燃え上がる、と思って読んでいました。
弟子たちの立場にたって読み返すと、イエスが弟子に語られた内容、「旧約の預言者たちの言葉が、イエスご自身によって実現した」(ルカ24・24-27)、の大切さに気がつきました。当時のユダヤの人にとって旧約は日常と結びついています。十字架刑に処せされたイエスは、旧約の神を重んじるユダヤ社会の中では間違いなく異端な存在ですから、弟子たちは自分たちはユダヤ社会からはみ出した存在だ、と意識していたでしょう。
その弟子たちに対して、イエスは弟子たちが幼いころから身近に感じてきた神、旧約の神から遣わされたことを復活によって示されたのです。弟子たちのこころが燃え上がったのは、自分たちが社会から疎外される存在ではなく、社会の中で生きていくにふさわしい存在であることをイエスが示してくださったからに他ならないでしょう。
私たちも人生を共に歩んでくださるイエスを感じてこころを燃やせるように、祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録1・1-11)・(第二朗読:ヘブライ9・24-28、10・19-23 または エフェソ1・17-23)

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

歌の歌詞が頭の中に響いてくるほど愛と平和という語句が何度も繰り返されています。さらに、ミサの聖体拝領前にいつも唱えられている「教会に平和を願う祈り」の中の一節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)も聞きなれた言葉です。でも、そのあとに続く言葉には思わずドキッとします。
「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14・27)もそうですし、「心を騒がせるな。おびえるな」とも続きます。なにかしらイエスが与えてくださる平和には、私たちが、心を騒がせたり、おびえたりするところがあるようです。イエスが与えてくださる平和は、争いや戦争がない平和の実現という単純なことではなさそうです。
ミサの中では「教会に平和を願う祈り」に続いて「互いに平和のあいさつを交わしましょう」と呼びかけられ、互いに「主の平和」と唱えて会釈します。このとき、私たちは「主の平和があなたとともに」という意味を込めているので、私たちの頭の中になにかしら「主の平和」のイメージが浮かんでいるのではないでしょうか。
私の場合はアッシジの聖フランシスコの平和を求める祈りです。祈りの冒頭は「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」で始まります。わたしが「主の平和」のあいさつに込めているのは、私たちが平和の道具になれますように、という願いです。みなさまはどのような思いを込められるのでしょう。
イエスから頂いた「主の平和」の姿を見ることができるように祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録15・1-2、22-29)・(第二朗読:黙示録21・10-14、22-23)

さて、ユダが晩餐の広間から出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

今日の聖書朗読の最後には「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)という私の大好きなイエスの教えがでてきます。
本日の福音は、ユダがイエスと弟子たちとの夕食の席から退席する場面から読まれます。その前の福音箇所をみると、イエスはユダに向かって「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)とお命じになられたこと、弟子たちは「なぜ、ユダにこう言われたのか分からなかった」(ヨハネ13・28)ことが記されています。弟子たちにとってはユダがイエスを裏切ってイエスが処刑されることなど全く想定外です。
さて、試しに弟子たちと同じ立場に自分を置いて、改めて今日の福音を読み返してみたいと思います。イエスから突然、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」と言われ、さらに本日の福音朗読では読まれませんが、「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」(ヨハネ13・33b)と言われた途端にモヤっとした不安がこみ上げてきます。それが気になって、新しい教えはちっとも私の心には入ってきません。
弟子たちも、イエスに「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13・36)とか「なぜ今ついていけないのですか」(ヨハネ13・37)と質問攻めにしています。やはり、弟子たちの心にも新しい教えは届かなかったようです。
この後、イエスの十字架上での死に打ちのめされた状態で、弟子たちは復活されたイエスと出会うことになります(ヨハネ20・19-29)。弟子たちがイエスの言葉の大切さに気が付いたのは、実はその時ではなかったか、というのは私の想像です。
絶望のなかで、劇的な復活を遂げられたイエスとの出会いは、弟子たちの心をイエスに限りなく近づけた瞬間だったでしょう。その時に初めて弟子たちは「私があなたがたを愛したように」というイエスからの限りない愛の大きさを実感したはずです。
私たちも心をイエスに近づけて、イエスの愛に気づくことができるよう祈りましょう。
参考:(第一朗読:使徒言行録14・21b-27)・(第二朗読:黙示録21・1-5a)

そのとき、イエスは言われた。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

少年ダビデは、石投げによって巨人のゴリアトを倒してイスラエル国を救いました(サムエル記上17章)。羊飼いであったダビデは、狼や熊から羊の命を守るために、また群れから離れそうになった羊を呼び戻すために、石投げの技術を身に着けていたのです。
羊はか弱く、道に迷う動物です。穴に落ちると自力で這い上がる力も持っていません。生きていくためには羊飼いの存在が欠かせないのです。善き羊飼いであるイエス・キリストは「わたしの羊」を知り、声をかけ、心をかけて正しい道を歩むよう導き、命がけで守ってくださる方です。
「聞く」と「知る」が本日の福音書のキーワードです。「神の声を聞く」とは、様々な雑音に惑わされることなく、神からの呼びかけに心を開いて応えていくことです。「知る」ことも、単に知識としてだけではなく、深いつながりを持つことを指しています。イエスと父なる神が一つであるように、私たちとイエスが一つであることを、イエスは教えてくださいました。
祈りましょう。
イエスが「わたしの羊」と呼び、「わたしたちを知ってくださっている」「滅びることはない」と言ってくださることは大きな慰めであり、喜びです。イエスの招きに応えて、主の愛に包まれて歩んで行くことができますように。 アーメン
参考:(第一朗読:使徒言行録13・14、43-52)・(第二朗読:黙示録7・9、14b-17)

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

「さあ、来て、朝の食事をしなさい」
復活された主イエスは、弟子たちを食卓に招いてくださいました。そのころ弟子たちは、イエスとの出会いの場となった故郷のガリラヤに帰って、漁をしていました。イエスが弟子たちに現れたのは、これが三度目のことでした。
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11・16)と勇ましく言い放ったトマスも、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13・37)と大見えを切ったペトロも、最も大切な時に、怖くなって、主を置き去りにして逃げてしまったのです。合わせる顔がないと思い込み、打ち萎れていた弟子たちのもとに、復活された主イエスは何度も出現して、力ある祝福の言葉を掛けて、励ましてくださいました。
この日はガリラヤ湖畔にて、炭火をおこし、魚とパンを用意して・・。そうです。バーベキューパーティーの準備を整えて待っていてくださったのです。イエスの時代、食事を共にするということは、特別に親しい間柄にあるということを表していました。弟子たちが捕ったばかりの魚も加わって、暖かな宴が開かれたに違いありません。
祈りましょう。
弱い私たちは、何度もあなたから離れ、罪にまみれて苦しみ、もがきながら生きています。その度に、主は私たちのために、私たちの所まで歩み寄って下さり、親しい交わりに戻るよう招いてくださるのです。
主の招きの声に耳を傾けて、主の愛に身を委ねて生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:使徒言行録5・27b-32、40b-41)・(第二朗読:黙示録5・11-14)