2025年05月17日の聖書の言葉

5月18日 復活節第5主日 ヨハネ13・31-33a,34-35

 さて、ユダが晩餐の広間から出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の聖書朗読の最後には「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)という私の大好きなイエスの教えがでてきます。

 本日の福音は、ユダがイエスと弟子たちとの夕食の席から退席する場面から読まれます。その前の福音箇所をみると、イエスはユダに向かって「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)とお命じになられたこと、弟子たちは「なぜ、ユダにこう言われたのか分からなかった」(ヨハネ13・28)ことが記されています。弟子たちにとってはユダがイエスを裏切ってイエスが処刑されることなど全く想定外です。

 さて、試しに弟子たちと同じ立場に自分を置いて、改めて今日の福音を読み返してみたいと思います。イエスから突然、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」と言われ、さらに本日の福音朗読では読まれませんが、「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」(ヨハネ13・33b)と言われた途端にモヤっとした不安がこみ上げてきます。それが気になって、新しい教えはちっとも私の心には入ってきません。

 弟子たちも、イエスに「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13・36)とか「なぜ今ついていけないのですか」(ヨハネ13・37)と質問攻めにしています。やはり、弟子たちの心にも新しい教えは届かなかったようです。

 この後、イエスの十字架上での死に打ちのめされた状態で、弟子たちは復活されたイエスと出会うことになります(ヨハネ20・19-29)。弟子たちがイエスの言葉の大切さに気が付いたのは、実はその時ではなかったか、というのは私の想像です。
 絶望のなかで、劇的な復活を遂げられたイエスとの出会いは、弟子たちの心をイエスに限りなく近づけた瞬間だったでしょう。その時に初めて弟子たちは「私があなたがたを愛したように」というイエスからの限りない愛の大きさを実感したはずです。

 私たちも心をイエスに近づけて、イエスの愛に気づくことができるよう祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録14・21b-27)・(第二朗読:黙示録21・1-5a)