2025年05月24日の聖書の言葉

5月25日 復活節第6主日 ヨハネ14・23-29

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 歌の歌詞が頭の中に響いてくるほど愛と平和という語句が何度も繰り返されています。さらに、ミサの聖体拝領前にいつも唱えられている「教会に平和を願う祈り」の中の一節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)も聞きなれた言葉です。でも、そのあとに続く言葉には思わずドキッとします。

 「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14・27)もそうですし、「心を騒がせるな。おびえるな」とも続きます。なにかしらイエスが与えてくださる平和には、私たちが、心を騒がせたり、おびえたりするところがあるようです。イエスが与えてくださる平和は、争いや戦争がない平和の実現という単純なことではなさそうです。

 ミサの中では「教会に平和を願う祈り」に続いて「互いに平和のあいさつを交わしましょう」と呼びかけられ、互いに「主の平和」と唱えて会釈します。このとき、私たちは「主の平和があなたとともに」という意味を込めているので、私たちの頭の中になにかしら「主の平和」のイメージが浮かんでいるのではないでしょうか。

 私の場合はアッシジの聖フランシスコの平和を求める祈りです。祈りの冒頭は「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください」で始まります。わたしが「主の平和」のあいさつに込めているのは、私たちが平和の道具になれますように、という願いです。みなさまはどのような思いを込められるのでしょう。

 イエスから頂いた「主の平和」の姿を見ることができるように祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録15・1-2、22-29)・(第二朗読:黙示録21・10-14、22-23)