
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

今日の福音のように、もしイエスから面と向かって「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われたら、私はきっと嬉しく感じるはずです。そして、あれっ私の塩味って何なのだろう?とか、私はどんな光を放っているのだろう、と自問するはずです。そもそも、私のもっている塩味や光を周囲の人は感じているのかしら。
私には、人から見て「立派な行い」をしている自覚は全くありません。逆に、イエスが目の前におられたら、私のどこに塩味があるのですか、と尋ねたくなるでしょう。もう一度、福音を読み直してみました。今日の福音は、山上の説教のすぐあとの部分です。山上の説教から続けて読んでくると、イエスが言われた「立派な行い」は人々の模範となるような優れた行いのことではなさそう、と思えてきました。
イエスに倣って徹底して弱い立場に置かれている人の側に立つことが「塩味」であり、自分が弱い立場に落ちることを厭わないことが「世の光」なのかもしれません。もちろん、私には無理なことばかりです。イエスがわたしに向かって、「あなたは地の塩である」、「あなたは世の光である」と言われるのは、きっと「私が一緒にいるから、あなたはできる」という励ましの言葉なのでしょう。
イエスがいつも私たちを励ましてくださっていることに感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ58・7-10)・(第二朗読:1コリント2・1-5)