今週の聖書の言葉

11月30日 待降節第1主日 マタイ24・37-44

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音の最後に、イエスは「人の子は思いがけないときにくるからである」と記されているので、この箇所はキリストの再臨、すなわち世の終わりが来る時のお話であることは分かります。でも、私たちにとってはいつ来るかわからない世の終わりよりも、将来必ず訪れる自分の死の方によほど関心がもてるでしょう。

 わたしには、イエスの「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」という言葉が、「あなたも用意していなさい、死は思いがけないときに来るからである」のように聞こえてしまいます。

 どんな用意が必要なのかについては、今日の第二朗読で使徒パウロが教えてくれているのですが(ローマ13・11-14)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という言葉がとりわけ印象的です。私は中学高校一貫のミッションスクールに通っていましたが、特徴的な制服を着ている間は周囲からミッションスクールの生徒であるとみられていることを意識していました。

 「主イエス・キリストを身にまとった」と意識した途端、制服とは違って他人からは見えていないはずなのに、自分の一挙手一投足が御父のみ旨に適っているかしら、と考えてしまいます。「わたしを通らなければ、だれも父のもとにいけない」(ヨハネ14・6)というイエスの言葉は実はこういうことだったのか、と思ったりします。

 主イエス・キリストを身にまとえるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ2・1-5)・(第二朗読:ローマ13・11-14a)