そのとき、イエスは弟子たちに、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
私たちは、自分の欠点は棚に上げて、他人を批判することを好む傾向があるのではないでしょうか。自らの大きな過ち(丸太)を見逃しながら、他人の小さなミス(おが屑)を咎めていることをイエスは指摘されました。
「目の中の丸太」というイエスの御言葉を、長く私はユーモアを交えた誇張された表現だと思っていました。しかし最近、目の中にある丸太は、大きすぎるために目が塞がれて、その存在にすら気づかなくなることを諭してくださっているのかな?と思うようになりました。
大きくて重い丸太は、人の力だけでは取り去ることができない厄介なものです。「水」の力で洗い流すか、「火」によって焼き尽くす。そうなのです。「聖霊」の働きによって取り除いていただくことが必要なのではないでしょうか。
祈りましょう。
自分に甘く、他人に厳しい心を、神様のお恵みによって捨て去ることができますように。そして、自らに厳しく接し、周りの人の優しさ、愛の行いに気づき感謝する心を持つことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:シラ書27・4-7)・(第二朗読:1コリント15・54-58)