
そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

自分の死を目前にして、イエスを罵る犯罪人とイエスに信仰告白をする犯罪人の二人が対照的に描かれています。
ラジオ番組「心のともしび」の放送原稿を執筆してくださっている方の中に、時々死刑囚の
その執筆者のお話を伺っていて、今日の福音書の箇所を思い出しました。多分、自分の死を受け入れられる方は、死後に自分が赦されることに希望を託すのでしょう。ところが、たとえ死刑に処せられるような犯罪人でも、自分の死を拒絶している方は生き永らえることを強く念じているので、今救われないものには価値を見出せないのでしょう。
イエスをなじった犯罪人は、目の前の死から救ってくれない救世主なんか最低だ、と思っていたのでしょう。思わずイエスを罵ってしまった気持ちも分かります。人から改心する余地さえ奪ってしまう死刑とは、とても残酷な刑罰です。
私たちの祭壇には
イエスが受け入れてくださった死の苦しみに心から感謝して祈りましょう。
参考:(第一朗読:サムエル下5・1-3)・(第二朗読:コロサイ1・12-20)