
そのとき、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢鐘や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

今日の福音でイエスは世の終わりについて語られます。ただ、それが、いつ、どんな風に始まるのかについては、ほとんど何も語ってくださいません。ただ、「その日は不意に」(ルカ21・34)くるので、「いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)と言われるだけです。
イエスが語られる世の終わりでは、戦争や自然災害に見舞われるだけでなく、周囲の近しい人から激しく非難される非常につらい立場に立たされるようです。でも、よく考えてみると、災害や争いに巻き込まれて運よく生き延びたと思ったら、近しい人に裏切られるといった酷い体験をする人たちは、今でもたくさんおられます。
広島、長崎で被爆された方が結婚や就職で言われのない偏見に晒されました。つい最近の福島の原発事故では、避難された方の中には、汚染を持ち込むなどと言われて様々なところで差別を経験されました。
現代を生きる私たちには、世の終わりと言われてもピンときませんが、当時のユダヤ社会では世の終わりがまもなく到来する、と信じる人もいました。その人たちにイエスは世の終わりに備えて特別な準備をする必要はない、と説かれます。なぜなら、神が必要なことはすべて教えてくださるからであり、目を覚まして祈っている人であれば神が守ってくださるからです。
世の終わりは神の審判が下る日です。その日の裁きで永遠の命を得ることができるか、滅びの途に下ることになるかが決まり、神を受け入れなかった人がすべて滅ぼされる、とされています。神は御子を世に遣わされるぐらいですから、世の終わりに滅びる人たちが一人もいないよう願っておられるはずです。
全てのひとが神を畏れ敬うことができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:マラキ3・19-20a)・(第二朗読:2テサロニケ3・7-12)