
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

今日の福音の最後に、イエスは「人の子は思いがけないときにくるからである」と記されているので、この箇所はキリストの再臨、すなわち世の終わりが来る時のお話であることは分かります。でも、私たちにとってはいつ来るかわからない世の終わりよりも、将来必ず訪れる自分の死の方によほど関心がもてるでしょう。
わたしには、イエスの「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」という言葉が、「あなたも用意していなさい、死は思いがけないときに来るからである」のように聞こえてしまいます。
どんな用意が必要なのかについては、今日の第二朗読で使徒パウロが教えてくれているのですが(ローマ13・11-14)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という言葉がとりわけ印象的です。私は中学高校一貫のミッションスクールに通っていましたが、特徴的な制服を着ている間は周囲からミッションスクールの生徒であるとみられていることを意識していました。
「主イエス・キリストを身にまとった」と意識した途端、制服とは違って他人からは見えていないはずなのに、自分の一挙手一投足が御父のみ旨に適っているかしら、と考えてしまいます。「わたしを通らなければ、だれも父のもとにいけない」(ヨハネ14・6)というイエスの言葉は実はこういうことだったのか、と思ったりします。
主イエス・キリストを身にまとえるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ2・1-5)・(第二朗読:ローマ13・11-14a)

そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

自分の死を目前にして、イエスを罵る犯罪人とイエスに信仰告白をする犯罪人の二人が対照的に描かれています。
ラジオ番組「心のともしび」の放送原稿を執筆してくださっている方の中に、時々死刑囚の
その執筆者のお話を伺っていて、今日の福音書の箇所を思い出しました。多分、自分の死を受け入れられる方は、死後に自分が赦されることに希望を託すのでしょう。ところが、たとえ死刑に処せられるような犯罪人でも、自分の死を拒絶している方は生き永らえることを強く念じているので、今救われないものには価値を見出せないのでしょう。
イエスをなじった犯罪人は、目の前の死から救ってくれない救世主なんか最低だ、と思っていたのでしょう。思わずイエスを罵ってしまった気持ちも分かります。人から改心する余地さえ奪ってしまう死刑とは、とても残酷な刑罰です。
私たちの祭壇には
イエスが受け入れてくださった死の苦しみに心から感謝して祈りましょう。
参考:(第一朗読:サムエル下5・1-3)・(第二朗読:コロサイ1・12-20)

そのとき、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢鐘や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

今日の福音でイエスは世の終わりについて語られます。ただ、それが、いつ、どんな風に始まるのかについては、ほとんど何も語ってくださいません。ただ、「その日は不意に」(ルカ21・34)くるので、「いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)と言われるだけです。
イエスが語られる世の終わりでは、戦争や自然災害に見舞われるだけでなく、周囲の近しい人から激しく非難される非常につらい立場に立たされるようです。でも、よく考えてみると、災害や争いに巻き込まれて運よく生き延びたと思ったら、近しい人に裏切られるといった酷い体験をする人たちは、今でもたくさんおられます。
広島、長崎で被爆された方が結婚や就職で言われのない偏見に晒されました。つい最近の福島の原発事故では、避難された方の中には、汚染を持ち込むなどと言われて様々なところで差別を経験されました。
現代を生きる私たちには、世の終わりと言われてもピンときませんが、当時のユダヤ社会では世の終わりがまもなく到来する、と信じる人もいました。その人たちにイエスは世の終わりに備えて特別な準備をする必要はない、と説かれます。なぜなら、神が必要なことはすべて教えてくださるからであり、目を覚まして祈っている人であれば神が守ってくださるからです。
世の終わりは神の審判が下る日です。その日の裁きで永遠の命を得ることができるか、滅びの途に下ることになるかが決まり、神を受け入れなかった人がすべて滅ぼされる、とされています。神は御子を世に遣わされるぐらいですから、世の終わりに滅びる人たちが一人もいないよう願っておられるはずです。
全てのひとが神を畏れ敬うことができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:マラキ3・19-20a)・(第二朗読:2テサロニケ3・7-12)

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

その当時、神殿への参拝者は神殿税を納めるために一般に流通している通貨を神聖通貨に両替する必要がありました。また、
その場所で、イエスは人を傷つけるような暴力を振るわれたわけではなく、縄を振り回して牛や羊を追い出し、両替商の机をひっくり返し、鳩を持って出て行け、と叫ばれただけです。諫めた弟子はいなかったようですし、商人たちが抗った様子も記されていません。
商人たちは、弟子を連れて境内に入ってきた姿から「この連中に逆らうとまずい」と思ったかもしれません。そもそも、この場所は異邦人の庭と呼ばれており、商人の中にはユダヤ人ではない人も多かったはずです。神殿のなかで異邦人がユダヤ人に怪我でもさせたら大事になると思って、商人はイエスに言われると早々に境内から立ち去ったのだと思います。
イエスが力で追い出されたような記述になっているので、イエスが暴力を肯定されているように思う人もいるようですが、イエスは商人たちに怒っておられるのではなく、神殿に税を納めて生贄を捧げれば神の恵みを受けることができるという風潮に対して激怒されているのです。捧げもので神の恵みを得る、という行為に対して「神の家を商売の家にしてはならない」とはっきりと断じられました。
私たちも、神の恵みを得るために必要なのはイエスを受け入れることだけだということを常に思い起こして、祈りましょう。
参考:(第一朗読:エゼキエル47・1-2、8-9、12)・(第二朗読:1コリント3・9c-11、16-17)

そのとき、イエスは人々に言われた。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

今日の福音朗読箇所の直前には、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(ヨハネ6・36)というイエスの言葉があります。残念なことですが、見ているからこそ信じられない、ということがありそうです。
当時のユダヤ人にとって神とは預言者を通して語られる存在です。その神が人間の姿になって自分たちの前に現れたと言われても、何を言われているのかを理解するのは私たちが想像する以上に難しかったでしょう。私たちは、ミサの中でご聖体拝領をすることに慣れてしまっているので、イエスが「わたしが命のパンである」と言われても、不思議な気はしません。
ところが、当時のユダヤ人は神から与えられるパンがわたし(イエス)である、と言われて、「どうしてひとが天から降って来たなどといえるのか?」とか「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか?」と疑問に思うだけでなく、あからさまに嫌悪感をしめす人もいました。
イエスについてきた弟子たちの多くがこの話に拒絶反応を示してイエスのもとを去った(ヨハネ6・66)くらいですから、今日の福音の内容はイエスが最も伝えたいことであると同時に、受け入れるのが難しい箇所であるに違いありません。
イエスが多くの
見かけに惑わされることなく、イエスを受け入れることができるよう祈りましょう。
参考:(第一朗読:知恵3・1-6、9)・(第二朗読:ローマ8・31b-35、37-39)