2024年09月28日の聖書の言葉

9月29日 年間第26主日 マルコ9・38-43,45,47-48

 そのとき、ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。

 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 「イエスの名前を使って悪霊を追い出している者をやめさせようとする」弟子たちの考え方に、上から目線の傲慢さを見ることができるのではないでしょうか。閉鎖的なグループ意識を捨てて、イエスを中心としたグループに属していない人たちの行為や小さな協力に心からの感謝を持って臨むように、とイエスは諭してくださいました。

 「一杯の水を飲ませてくれる」とは「僅かなこと」という意味なのでしょうか?
 マタイ福音書10章42節には「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」と記されています。冷蔵庫がない時代に、暑さが厳しい地域で「冷たい水」を得ることは、手間と時間を要するものでした。このことについて本田哲郎神父様は著書の中で次のように語っておられます。

 「朝、水をくんで、素焼きの大きな瓶(カメ)一杯にしておきます。素焼きなので瓶の壁面の肌から水がにじみ出て、外の気温が50度ぐらいで乾燥しているので、すぐ蒸発します。その気化熱で、水瓶の中の水が冷える訳です。ですから、使わなくても、水はどんどん減っていきます。冷えた水は貴重品なのです。自分の目の前の貧しく小さくされた人たちにぬるくなった水ではなく、よく冷えた貴重な水を差しだすということは、まさに尊敬の念をこめた関わりを意味する言葉なのです」
  本田哲郎『聖書を発見する』(岩波書店)

 さて、本日の福音書の後半部分では、4回にわたって「つまずかせるものを捨てなさい」と、イエスは厳しいお言葉でお命じになっています。預言者イザヤは、救いを妨げるものとして次のように警告しています。
 「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59章1~3節)

 祈りましょう。
 感謝の気持ちを忘れることなく、人々の善意を受け入れる素直な心を持つことができますように。
 救いを妨げるものを私たちから遠ざけてください。常に主の呼びかけに応えて生きていくことができますように。主キリストによって、アーメン。

参考:(第一朗読:民数記11・25-29)・(第二朗読:ヤコブ5・1-6)


2024年09月21日の聖書の言葉

9月22日 年間第25主日 マルコ9・30-37

 そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 「人の上に立ちたい、人から認められたい」という願望を人間は潜在的に持っていることを福音書は伝えています。イエスと生活を共にして、身近にイエスの教えを聞いてきた弟子たちでしたが、誰が一番偉いのか議論し合っていたと福音書に記されています。
 イエスから「途中で何を議論していたのか?」と尋ねられた弟子たちは、何も言えずに黙っているしかありませんでした。さすがに「まずい。やばい」と思ったのでしょう。そのような弟子たちに対して、イエスは「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」と、弟子たちの思いとは真逆のことを教えてくださいました。

 「子供を受け入れる」とは謙遜になりなさいということです。子どもは汚れがなく可愛い存在であるという現代の考え方とは異なり、当時のユダヤ社会では、子供は律法を学ぶことができていない不完全な弱い存在でしかありませんでした。

 祈りましょう。
 小さくされた人々である、国を追われ難民生活を余儀なくされた人々に対して、気候変動や紛争によって食料や飲み水が不足し苦しむ人々に対して、病気や高齢のために人との交わりが断たれた孤独な人々に対して、仕える者となることができますように。何を成せばよいかをお示しください。そして一歩ずつ成すべきことを成す勇気をお与えください。  アーメン。

参考:(第一朗読:知恵2・12、17-20)・(第二朗読:ヤコブ3・16-4・3)


2024年09月14日の聖書の言葉

9月15日 年間第24主日 マルコ8・27-35

 そのとき、イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。弟子たちは、この御言葉を復活されたイエスに出会うまで理解することができませんでした。イエスは弟子たちが後で思い出すことができるように、受難と復活の予告をなさったのです。

 困ったことを言う?イエスに対して「そのようなことを言うものではありませんよ」とたしなめる、上から目線(先輩から後輩へ?)のペトロの姿勢が見て取れます。「サタン、引き下がれ」"Get away, Satan!"は「あっちに行け!」という強い口調の言葉です。荒れ野で悪魔からの誘惑を退けるときのイエスの言葉(マタイ福音書4章10節)と同じです。

 祈りましょう。
 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことが弟子のとるべき態度である」とイエスは教えてくださいました。
 私たちが、直ちには理解できない御言葉や出来事に対して、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」聖母マリアに倣って、納めることのできる広い心を持つことができますように。そして復活されたイエスに出会って、喜んで十字架を背負って歩む姿に変えられた弟子たちのように、イエスに従って歩む者となることができますように。  アーメン。

参考:(第一朗読:イザヤ50・5-9a)・(第二朗読:ヤコブ2・14-18)


2024年09月07日の聖書の言葉

9月8日 年間第23主日 マルコ7・31-37

 そのとき、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 障害の有無に関わらず共に支えあうための合理的な配慮が、役所だけでなく広く民間事業者にも義務化されました。制度の充実が、すべての人の個性が尊重されて共に生きることができる社会の実現に寄与することができますように。

 本日の御言葉を、物理的には耳が聞こえ、声を発することができている人にも向けられたものと考えて、味わってみたいと思います。「耳が開かれていないのは私のことではないでしょうか? 舌が回らないのは私のことではないでしょうか?」と。

 私たちは、人の話を聴くことができているのでしょうか? また語るべきことを語っているのでしょうか?
 神の御言葉を心に響くものとして聴くことができているのであれば、その御言葉が血となり肉となって全身を駆け巡り、周りの人に分かち合うことができていることでしょう。人の発する言葉の奥にある、言葉にならない言葉を読み取ることができているはずではないでしょうか。

 祈りましょう。
 主イエスよ、あなたの力ある御言葉「エッファタ」を私にもお与えください。そして真実を見る目を開き、神の愛、人の愛を聴くことのできる耳を開いてください。人を傷つける言葉を発するのではなく、神を賛美し、人を慈しむ言葉を発する口を開いてください。 アーメン。

参考:(第一朗読:イザヤ35・4-7a)・(第二朗読:ヤコブ2・1-5)