そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
イエスが五つのパンと二匹の魚を五千人に分け与えて皆が満腹したという出来事の後に、パンを巡ってイエスと人々の対話が始まりました。
古来より人は、恵みを与えてくださり、災いをもたらす大自然を畏れ、人智をはるかに超えた存在を神と崇めて、いけにえを捧げてきました。
ところが本日の福音書でイエスは、これとは真逆のことを言われたのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と。ご聖体の秘跡は、私たちを創造し、守り導いてくださる全知全能の神が、弱き人間に御自らを差し出され、食べ物となってくださったことを表しています。
神は愛ゆえにご自身に似せて人を創造されました。ところが人は、いただいた自由意志をはき違えて罪を犯し、神から離れてしまいました。闇に迷い苦しむ人のために、今度は神ご自身が人となって、ご自身を与え尽くして、人を救おうと計画されたのです。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Ⅰヨハネの手紙4章10節)
祈りましょう。
イエス・キリストが私たち人間の食べ物となってくださったことを、感謝の内に黙想したいと思います。食べ物であるキリストは、引き裂かれて飲み込まれ、消化されてなくなることを通して私たちに永遠の命を与えてくださいます。私たちが、この限りない神の愛に応えて生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:蔵言9・1-6)・(第二朗読:エフェソ5・15-20)