五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちも小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
群衆がイエスのお姿を追い求めたのは何のためだったのでしょうか?
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とイエスは言われました。彼らは魂の救いのためではなく、自分の欲求を満たすためにイエスを探し求めていたのです。そのような群衆に向けて「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と諭してくださったイエスの御言葉を黙想したいと思います。
私たちは何のために教会に行き、ミサに与っているのでしょうか? 自分の心(欲求)が満たされるためではなく、永遠の命に至る食べ物を求めてキリストの許に行く者でありたいと願います。
併せて、「何のために働いているのか?」自らに問いかけてみたいと思います。収入を得て安定した生活を送ることは必要なことかもしれませんが、それらはやがて過ぎ去ってしまいます。私たちは、神が与えてくださった時間やエネルギーをこの世の朽ちる食べ物を得るために費やすあまり、永遠の命を得るための準備がおろそかになってはいないでしょうか?
祈りましょう。
あなたからいただいた賜物(gift:贈り物、才能)を、永遠の命に至るために使って働く者となることができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:出エジプト16・2-4、12-15)・(第二朗読:エフェソ4・17、20-24)