除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
キリストの聖体の主日にあたり、中川博道神父様(カルメル会)からのメッセージに耳を傾けたいと思います。
「食べること」は、食べ物にとっては引き裂かれ、かみ砕かれ、すりつぶされ、自らの姿を失い、死んでいくことです。そして、飲み込まれて消化され、自らが消えていくことです。自らが消えていきながら、自らを消し去る者に自分のいのちを与える出来事です。「私たちの知っているものの中で、食べ物は一番愛に近いものなのです」という言葉に出合ったとき、イエスの私たちへの思いの核心に触れたように思いました。イエスとは、聖体において、愛そのものであるお方が食べ物になった方なのです。
そのとき以来、「食べられるものとなられた方の思い」を思い巡らすようになりました。「愛」そのものである方が「食べ物」そのものになる神秘。ここにイエスの自己理解の中心的な意味が隠れているように思います。
聖体の秘跡の中から見えてくるイエスの関わりの本質は、ご自分を食べ、引き裂く者に、自らのいのちを与え続ける十字架の神秘です。イエスのからだを裂き、十字架を眺めるたびに、私たちは、神を死に追いやる、すなわち、愛を生きることのできない私たちの罪の現実と、自らを死に追いやる者のために、それでも自らのいのちを注ぎ続ける主の私たちへの関わりを見ます。そこには、罪の真っただ中にあってさえ、私たちを孤独の中に放置せず、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言うお方の、いのちがけの決意と関わりがあります。
中川弘道 著 『存在の根を探して』 オリエンス宗教研究所
参考:(第一朗読:出エジプト24・3-8)・(第二朗読:ヘブライ9・11-15)