そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
本日の御言葉には「つながる」という言葉が9回も使われていることからも、「つながる」がキーワードであることがわかります。ぶどうの枝が木の幹につながっている状態とは、枝内部の栄養分の通り道と幹とがつながっていて、枝に樹液がたっぷりと注がれている状態のことです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)この御言葉が実現しているのです。
祈りましょう。
イエス様は、枝である私たちに「愛」という栄養分を送り続けてくださるぶどうの木です。イエス様がくださる愛に満たされて、豊かな実を結ぶことができますように。
ぶどうの木は枝を伸ばし、横に広がっていきます。離れた所にある枝も、イエス様という同じ木に連なった兄弟姉妹であることを忘れることがありませんように。
農夫である父なる神は、豊かに実を結ぶように「手入れ」をしてくださるとイエス様は言われました。私たちが、必要のない物を切り捨てて、誘惑に負けることなく生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:使徒言行録9・26-31)・(第二朗読:1ヨハネ3・18-24)