イエスは、安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
本日の福音書の「汚れた霊に取りつかれる」というお話は、私たちの日常生活と結びつけて考えることが難しいテーマかもしれません。
汚れた霊の「かまわないでくれ」の叫びは、以前よく用いられていた聖書(バルバロ訳、ドン・ボスコ社)では「あなたと私たちとになんのかかわりがあるのか!」と訳されていました。神様からの愛の呼びかけに対して、「関係ないだろう」と拒絶する言葉なのです。
神のご意思は、人を通して伝えられることが多いと言われます。たとえ耳に心地よい言葉でなくても、私たちのことを思ってたしなめてくださる忠告に耳を傾けて、神様からの愛の呼びかけに応える心を持ちたいものです。
祈りましょう。
「黙れ。この人から出て行け」。このイエス様の「権威ある御言葉」に信頼して、悪を退ける勇気を持ち、喜びの内に生きてゆくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:申命記18・15-20)・(第二朗読:1コリント7・32-35)