2021年02月28日の聖書の言葉

これはわたしの愛する子。彼に聞け(マルコ 9・7)

今日の福音は、イエスの変容の箇所である。ここでイエスは、三人だけを連れて山に登られたとある。三人はおそらくイエスの認めた、弟子たちの中でもイエスの心に叶った人だったのかもしれない。その三人の前でイエスの姿が変わる。どうしてそのようなことをイエスは計画したのか。彼らはご自身の目にかなった者だから、せめて彼らだけでもご自分の本当の姿を見せたいと思われたのか。しかし、突然のこと故に弟子たちは、非常に驚き恐れた。「恐れ」には①恐怖、心配②畏怖、畏敬の意味があるが、ペトロはおそらくこれら両方を一瞬に感じたのであろう。その恐れを隠そうとペトロは、恐怖心が先ず彼の態度となった。そして、畏敬心から「一つはあなたに・・・」と訳の判らない言葉となって現れたのでしょう。また突如、雲に包まれる、どこからか声が聞こえる。一体何事が起こっているのか、只々弟子たちにとって、恐れ以外の何者でもなかったでしょう。やっと辺りを見回した時、そこにはイエスと弟子たちだけがいた。この箇所は、アブラハムが我が子イザクを生贄に献げる箇所と重なると聖書学者雨宮師は言う。「まさにその時、アブラハムは目を凝らして見回した時、イザクに換えて献げる雄羊を見つける。その雄羊は、神と人間を結ぶイエスに換えられた」と。その恐怖からイエスを見つけ安心する弟子たち。その後、山を降りるとき弟子たちに話したイエスの厳しい言葉。全て現実とは思えないイエスの言葉と、その日の出来事について弟子たちは、恐怖心と現実夢を分かち合うかのように論じ合っていた。あなたがもしこの場面に置かれたら、どのような言動を取られるでしょうか。出来事を思い起こしつつ、じっと心に留められますか。


2021年02月21日の聖書の言葉

イエスは40日間そこにとどまり...天使たちが仕えていた(マルコ1・13)

「霊」がイエスを荒れ野に送った。つまり、神の霊が・神の望みが、イエスを荒れ野に送った。何故、「荒れ野」であったのか。しかも40日間もの長い間。旧約聖書を見るとそれが判明する。シナイ山でモーセが神から十戒を受ける前、40日40夜、飲食なしで過ごした(出34:28)。またその間、サタンから誘惑を受けたが、野獣と一緒におられ、天使も仕えていた。と記述されているが不思議な箇所である。野獣と一緒、「なんで?」この箇所もイザヤ書の11章6節から10節を読めば理解できるだろう。つまり野獣たちは、害を与えるどころか小さな子供がそれらを導くと記述されている。おそらく天使もいたが、野獣たちも小さな子供を守っていたのである。ということは、神の創られた被造物(自然界のもの全て)との共存共生は必然であることがわかる。ところが現代において共存共生どころか、全て人類によって破壊されているのが現状である。さて40日間は、モーセ同様、イエスも人として生きるためには、人の受ける全ての誘惑を体験することが求められた。特に現代医学から見ても、人間にとって身体的、精神的限界は40日間とされている。したがってイエスは神性だけでなく、人性として徹底的にその限界を熟知されたのである。その間、イエスはサタンから誘惑を再三再四受けたが、イエスはそれらを試練とし、現代に生きる私たちに歩むべき道を教えている。その後、洗礼者ヨハネが捉えられたことを知ったイエスは、ヨハネからバトンタッチされたかのように、宣教の拠点となるガリラヤへと赴き、ヨハネと同じ言葉「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り、福音宣教の始まりとしている。この箇所から全ての計らいは、神のご計画、神の望みであることを知らされる。


2021年02月14日の聖書の言葉

わたしは望む、清くなれ(マルコ1・41)

イエスの癒しは、これまで普通の病気、悪魔付きといった比較的軽い病の癒しだったのではないか。ところが今日の福音では、重い皮膚病の人がイエスのところに来た。この病気は当時不治の病とされ、人々から恐れられて居た。したがって、この病にかかった人は、人々から差別され人里離れた場所で生活した。生活したとはいえ、生きていくだけでも大変な生活だった。その病の人がイエスに願う言葉に、平常ではない言い回しがあるのに気づいただろうか。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という願いです。この「わたしを清くすることができる」という表現です。通常なら「わたしを憐れんでください」とか「わたしの病気を治してください」と願う。何故このような表現をあえてしているのか。ここに当時の社会情勢がうかがえる。この時代もこの重い病気に対して、異常な嫌悪感を持って居たこと、この不治の病気を患った者は、罪人として蔑視された。そこでこの病人は、イエスに対して「あなたに "神の力が働く"のであれば、or "神の望み"があなたの中に働くのなら、必ず、私を癒すことができる」という「もしあなたが神なら」と病人の切望を語るのである。その言葉を聞きイエスは、その人を深く憐れみ、手を差し伸べ直接肌に触れて癒されたのではないでしょうか。その結果、病人は完全に治癒した。すでに諦め、人生を投げ捨てて居たその人に、新たな人生・命が与えられた。そこで癒された人は我を忘れ、イエスが「話さないように」と言ったにもかかわらず、喜びのあまり出会う人々、誰彼無しに話してしまった。否、話さずには、おられなかった。誰でもこの様なことが我が身に起こったら、同じ状態になるのではないですか。


2021年02月07日の聖書の言葉

一緒に近くのほかの町や村に行こう...わたしはそのために出て来たのである(マルコ1・38)

イエスの始められた宣教は、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ということである。それから直ぐだったのか、何日か経ってからか定かではないが、シモン、アンデレ、ヤコブとヨハネをガリラヤ湖畔で弟子とした。その弟子たちを率いカファルナウムの会堂へ行き、彼らの目の前で悪霊を追い出した。そしてまた別の会堂へ行く途中、シモンの姑が病気ということでイエスは、急遽シモンの姑の家に行く。この間の時間の隔たりもいか程なのか、また定かではない。定かではないが、時間の間隔が読めないほど、イエスは宣教の為、人々への癒しを精力的に実践していたことが窺える。またイエスの癒しは、非常に具体的で相手を丸ごと包み込むように癒される。癒し方としては最高のやり方である。相手から緊張感を解き、安心感を与えるからだ。(現代の医者も見習って欲しい。) また、日没と共に仕事は終わらない。イエスを求め集まった大勢の人々へ嫌な顔一つせず、精力的に働き続ける。しかし、翌朝イエスは一人祈った後、更に人々がイエスを探し求めていることを知り、別の場所へ宣教のため立ち去った。今日の箇所からシモン(ペトロ)は、妻帯者であることがわかる。つまり弟子たちには、妻帯していたものも居たということ。またイエスの"癒し"は、求める相手を拒まず徹頭徹尾与え尽くす、そして同じ場所に居続けるのではなく、常に場所を移しながら貧しい人や困っている人々のために出向いて行くのである。このイエスの宣教姿勢は、現代の宣教師たちに大切なことを伝えている。