2020年12月27日の聖書の言葉

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、・・・・帰った(ルカ 2・39)

 イエス様のご両親であるヨセフとマリアは、非常に神の掟(神様との約束)に対して従順で信仰深く、誠実な方あられたことが、今日の福音から読み取れますね。この出来事の一連は、ご両親が神の愛を心から信じ、神にすべて委ねることのできる絶対的な信頼を持っておられたからでしょう。ところが神殿での出来事、シメオンとアンナとの出会い、彼らから告げられた言葉に、随分、驚いたのではないでしょうか。どうしてそんなこと言われるのか、怖くなった、聞きたくない言葉が話される、その場から早く逃げたいと感じられたと思います。しかし、ヨセフとマリアのすごいところは、その預言者たちの言葉に少しも反論することなく、逃げ去ることもなく、唯"じっと"耳を傾け、素直に受け止められたということです。

 私たちの場合は、どうでしょうか。自分にとって都合のいいことは受け入れるけど、都合の悪いことは"ええ~、そんなこと知らないよ。誰のこと"と、はぐらかし耳を傾けるどころか、全く受け入れないのではないだろうか。どうかご都合主義にならないように。しっかりと、私たちも与えられた現実を確認して、その事実を受け止め、その言葉の奥に隠されている意義を感じ取ることのできる、心の広い人になれますように。


2020年12月20日の聖書の言葉

神にできないことは何一つない (ルカ 1・36)

 突然、天使からマリア様は告知を受けました。天使からの優しい声かけであったでしょうが、声かけられたマリア様の驚きは、どれ程のものだったでしょう。"恐れることはない"と言われても、突然、身に覚えのないことを告げられ、正直、大変"恐怖"を感じられたのではないでしょうか。でもマリア様は熱心に天使の話を聞かれました。そして、親類のエリザベトのことを聞かされた時、「あっ!その通りだ」とマリア様は、その言葉を確信されたのではないでしょうか。それゆえに天使に対してマリア様は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と語られたのでしょう。

 隣人の話に心の耳を傾けて聞くとき、何かそれまで意識していなかったこと、聞き流していたことに気づかされることはありませんか。忙しさから少しだけ離れて、そっと隣人の声に耳を傾けるとき、あなたの心の耳にきっと何か大切なメッセージが聞こえて来るかもしれませんよ。


2020年12月13日の聖書の言葉

彼は光ではなく、光について証しをするために来た(ヨハネ 1・8)

 洗礼者ヨハネは、神から遣わされた一人の人です。彼の言葉から誠に実直、従順、謙遜であることが伺えます。一般に神から遣わされた人であるのなら、どうでしょうか。当時のユダヤの人がそうであったように、自分たちは選ばれた種族、特別な民族であるから・・・・。と自慢したり、そうでない人を見下したりしませんか。

 ところが洗礼者ヨハネは、真逆な性格の人でした。むしろ謙遜に嘘偽ることなく、人々からの問いかけに真摯に答えています。そうした姿勢こそ、神を信じる人々に求められている神からの望みではないでしょうか。自我を無理やり押さえつけるのではなく、神の懐の中で自由に素直になって、謙遜な姿勢で人々と関わることができますように。


2020年12月06日の聖書の言葉

主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ(マルコ 1・3)

 預言者イザヤの言葉から始まるマルコ福音書の冒頭は、読むものに非常に強いインパクトを与えています。なぜなら神のみ言葉の実現が、真にこれから始まりますよと、非常にドラマチックに伝えるからです。そしてその通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れてと、間を入れることなく福音を始められるのです。

 しかし唯、派手なドラマの始まりではなく、むしろ地味な信仰の根源である貧しさの中に輝く謙遜の光輝を表現しているように感じるのです。これこそ神のみ業、神の柔和で謙遜さ、優しさをすべての人に伝える者の誕生の準備として、洗礼者ヨハネがイエスに先立って送られたことを否応無しに意識させられるのです。今日、"この言葉をいつも意識していなさい"とあなたにも声かけられていますよ。