2026年06月27日の聖書の言葉

6月28日 年間第13主日 マタイ10・37-42

 その時、イエスは使徒たちに言われた。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の朗読箇所はマタイ10章の最後の部分で、11章の冒頭は「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り」(マタイ11・1)と始まります。マタイ10章はイスラエルの町や村に派遣される弟子たちへの言葉が記されている箇所なのです。

 「こうして、自分の家族のものが敵となる」(マタイ10・36)という言葉は、これから弟子たちが自分の出身地に赴いたときに体験しそうな試練です。家族や友人の中には弟子たちに向かって、「そんなことを宣べ伝えて、どうなる?」とか、「イエスのような人物に付き従うのを止めなさい」と心配して声を掛けてくる人がいるでしょう。

 そんな言葉に囲まれながら、イエスの言葉を宣べ伝えるのは精神的に相当きついはずです。その大変さを想像しながらイエスの言葉を聞いていると、「自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という言葉は、精神的な労苦を厭わない弟子たちこそがわたしに相応しい、というイエスの励ましの言葉に聞こえてきます。

 遣わされた先で待ち構える困難をイエスから聞かされて、弟子たちは多少とも(ひる)んだでしょう。そんな弟子たちに、イエスは最後にこんな言葉を付け加えてくださいます。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10・42)どんなにささやかなことであっても、自分たちに親切にしてくれた人には大きな恵みが与えられると信じて良いのです。

 たとえ大きな成果をあげられなくても、人と関わりをもつことにこそ自分たちが遣わされる大切な意味があるのだ、と腑に落ちる言葉です。私たちもキリスト者として他人との関わりを大切にできるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:列王記下4・8-11、14-16a)・(第二朗読:ローマ6・3-4、8-11)


2026年06月20日の聖書の言葉

6月21日 年間第12主日 マタイ10・26-33

 そのとき、イエスは使徒たちに言われた。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音で朗読されるマタイ福音書10章は、イエスが12人の弟子をイスラエルの町や村に派遣される場面から始まります。ユダヤの人たちのなかにはイエスに対して反感をもつ人たちも多いので、イエスは弟子たちを遣わす前に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(マタイ10・16)、と弟子たちを気遣います。

 派遣された村で危険に晒されそうになったら、「他の町へ逃げて行きなさい」(マタイ10・23)と自分の身を守るよう指示されます。それなのに、今日の福音書は、「人々を恐れてはならない」、とちょっと聞くと真逆のような言葉から始まります。どうやら、「恐れる」ことと、「逃げる」こととは違うぞ、とおっしゃったようです。

 イエスご自身も身の危険を察して何度も群衆から逃れておられます。イエスが弟子たちに人々を恐れるなと言われるのは人々に迎合するな、という意味かもしれません。本当のことを伝えると、間違っていることを認めたくない人は怒り出します。イエスの教えや行動のなかには、その当時のユダヤの人の律法に違反していると思われるものがあったのです。それでも、イエスは人々の前で教えることを決して止められませんでした。

 イエスがおっしゃった「恐れるな」とは、人々に本当のことを知らせることを恐れるな、ということなのでしょう。私たちも真実を告げる時にしり込みしたくなる気持ちに打ち負かされないよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:エレミヤ20・10-13)・(第二朗読:ローマ5・12-15)


2026年06月13日の聖書の言葉

6月14日 年間第11主日 マタイ9・36~10・8

 そのとき、イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音では、イエスが珍しく困ったような表情を浮かべておられます。多くのひとが飼い主のいない羊のように困惑している様子をご覧になったからです。このひとたちすべてをお救いになりたい衝動に駆られて、ご自分のもどかしさを声に出されます。それが、「収穫は多いが、働き手が少ない」という言葉でした。

 この言葉は、「救いを待つひとは多いのに、救いを得るために必要な神の言葉を宣べ伝えるひとが少ない」という意味だそうです。さらに、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りなさい」、つまりひとびとを救いに導くひとを遣わしてくださるよう、御父に祈りなさい」と、わたしたちに呼びかけられます。

 マタイ福音書の4章から9章には、イエスが洗礼を受けてガリラヤ地方で伝道を始められてから、多くのひとびとに教えを説かれ、多くのしるしを行われる場面が記されています。それなのに、まだまだ救いに与れるひとが多く残されていることに、イエスは心を痛められます。

 この時、イエスは12人の弟子に権能を授けてひとびとの救いのために遣わすだけでなく、ひとびとの救いのために多くの働き手を遣わしてくださるよう御父に願うには、ご自分だけでなくわたしたちの祈りも必要だ、と呼びかけてくださいます。イエスの呼びかけに応えて、祈りましょう。

参考:(第一朗読:出エジプト19・2-6a)・(第二朗読:ローマ5・6-11)


2026年06月06日の聖書の言葉

6月7日 キリストの聖体 ヨハネ6・51-58

 そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音書のイエスの言葉を聞くと本当にドキッとします。人の肉を食べ、血を飲むってできるわけがない、と誰でも思うでしょう。それまで、イエスに付き従っていた人たちのなかにも、この言葉を聞いて「とても一緒についていくことはできない」とイエスのもとから立ち去った人たちがいたようです。

 イエスが神の御子だということを受け入れてミサ聖祭で聖体を拝領している人なら、頭ではイエスの言葉を理解できます。それでも、もし自分がその場にいて、イエスご自身から、同じことを言われたとしたらどうでしょう。間違いなく激しく動揺したことでしょう。最後の晩餐の場面で、パンとブドウ酒とをご聖体として示してくださるまで、たとえ弟子たちでもイエスの言葉の意味を理解できていなかったはずです。

 ヨハネ5章では、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、」(ヨハネ5・24)と言われたのと同じことを言っておられるはずなのに、目の前にいる人から「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、」(ヨハネ6・56)と言われると当たり前のように躊躇します。それは、きっとわたしたちが生きるために必死に食べようとするのと同じくらい、生きるために必死に信じようとはしていない、ということなのでしょう。

 イエスにとっては、わたしたちが生きるために「食べる」ことと同じくらい、生きるために「信じる」ことが大切なのです。イエスはわたしたちに、「生きるために食べるのと同じくらい貪欲に神を求めなさい」と告げておられるのでしょう。私たちが生きるために必死に神を求めることができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:申命記8・2-3、14b-16a)・(第二朗読:1コリント10・16-17)