2026年05月23日の聖書の言葉

5月24日 聖霊降臨の主日 ヨハネ20・19-23

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の朗読箇所の直前には、マグダラのマリアが墓を見に来てイエスのお体が墓のなかにないことに呆然としているところが描かれています。そんな彼女にイエスが語り掛けられます。イエスは彼女に天に昇って父のもとへいくと弟子たちに伝えるように告げられます。ところが、弟子たちは、彼女の「わたしは主をみました」という言葉を聞いても部屋の中に閉じこもっていて外へ出ていこうとはしませんでした。

 そこへイエスが現れます。まるで今まで何事もなかったかのように弟子たちに声をかけて十字架刑で受けた傷痕を示されます。この時、「弟子たちは、主を見て喜んだ」、としか記されていません。マグダラのマリアが感極まってイエスの膝にしがみついたのとは対照的です。自分たちが見ているものが信じられなくて呆然としている弟子たちの様子が伝わってきます。

 その様子をご覧になったイエスは、弟子たちを聖霊の力で満たすために息を吹きかけられます。この場面で、御父が人を創造されるときに「鼻に命の息を吹き入れられた(創世記2・7)」ことを思い出します。復活されたイエスが弟子たちに新たな命と役割をお与えになったと実感できる場面です。わたしたちも聖霊の息吹によって与えられた命と役割を思い起こすことができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録2・1-11)・(第二朗読:1コリント12・3b-7、12-13)


2026年05月16日の聖書の言葉

5月17日 主の昇天 マタイ28・16-20

 そのとき、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日朗読される箇所はマタイ福音書の最後の箇所です。この章は、墓を見に行った婦人たちに天使が現れて、復活したイエスがガリラヤで待っておられると告げるところから始まります。婦人たちの話を聞いた弟子たちはすぐにガリラヤに向かったことでしょう。

 その当時、エルサレムからガリラヤに行くには、徒歩でサマリアを越えて行くので4日ほどかかりました。ですから、弟子たちがガリラヤの山に登ってイエスと会うことができたのは、最後の晩餐から1週間程後だったことになります。弟子たちの中にはガリラヤ湖で漁師をしていて召命を受けた人もいました。同じようにガリラヤでイエスと出会って弟子になった人たちからすれば、イエスに会うために歩いている道は、イエスと出会った場所へ向かう道でもあります。

 弟子たちは歩きながら、イエスに出会う前の自分や出会った後の自分の姿を思い起こすでしょう。イエスの処刑に動揺してイエスの弟子であることを隠したり、閉じこもってしまったりしたことを悔やんだかもしれません。私には、この4日間の徒歩での移動は弟子たちがイエスと改めて向き会う大切な時間だったと思えます。イエスに会う前に、きっと弟子たちは何かしらの決意をしていたでしょう。

 そんな弟子たちは、イエスに「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と告げられても躊躇(ためら)うことはなかったはずです。そして、この言葉は、弟子たちと同じようにイエスに付き従おうとする私たち一人一人へのメッセージです。すべての人がイエスを通して神の救いに与ることができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録1・1-11)・(第二朗読:エフェソ1・17-23)


2026年05月09日の聖書の言葉

5月10日 復活節第6主日 ヨハネ14・15-21

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音には、とても印象的な言葉があります。それは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」です。イエスが言われた、わたしの掟とは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34a)でしょう。

 イエスは、ご自分がまもなく御父から遣わされた役割を終えようとしていることをご存知です。そして、十字架の上でお亡くなりになるイエスをみて、弟子たちが大いに動揺することをよく承知しておられます。今日の福音で、イエスが弟子たちに新たな覚悟を促されています。それは、人としてのイエスが見えなくなった後には、弟子たちはイエスを通さずに直接御父と共に生きることになるからです。

 このイエスの言葉は、そのままわたしたちにも向けられます。わたしたちは、弟子たちとは違って復活されたイエスの姿を見ることもできません。イエスと会うことができなかったわたしたちがイエスの掟を受け入れることができているとしたら、イエスがわたしたちのなかにいて下さるのが分かるとしたら、それは御父がわたしたちとともに生きてくださっている証なのだ、と思います。

 わたしたちのなかにいると断言してくださるイエスに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録8・5-8、14-17)・(第二朗読:1ペトロ3・15-18)


2026年05月02日の聖書の言葉

5月3日 復活節第5主日 ヨハネ14・1-12

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 ヨハネ福音書には、しばしばイエスを亡き者にしようというユダヤの人たちからイエスが逃れられる場面が記されています。例えば、神殿奉献記念祭が行われていたエルサレムの神殿で、ユダヤ人たちはイエスを捕らえて石で打ち殺そうとします(ヨハネ10・30)。この時、イエスはエルサレムを離れてヨルダン川の岸辺まで逃れて行かれます。この騒動の後、大して時間も経たないうちに亡くなったラザロを蘇らせてエルサレムへ入場されるのです(ヨハネ12・12)。

 イエスがエルサレムに入られた瞬間、弟子たちは周囲の不穏な雰囲気、イエスを亡き者にしようとする気配に気付いたことでしょう。今日の福音朗読箇所の直前には、イエスがご自分を裏切る弟子がいること、ご自分がこれから弟子たちには来ることができない所へ行くと告げられる場面が記されています。イエスが奪い去られてしまうかもしれない。そんな不安と緊張に押しつぶされそうになっている弟子たちに対してイエスが告げられた言葉が今日の福音書です。

 イエスに「心を騒がせるな」と言われても、弟子たちの動揺は収まりません。トマスがイエスの示された道を見せてくれと懇願する姿、フィリポが人であるイエスではなく神である御父の姿を一目見たいと訴える姿は不安に駆られた時の私たち自身の姿に重なります。イエスに付き従ってきた弟子たちでさえ、先行き不安なときには確かな保証や目に見える繋がりを求めてしまいます。そんな弟子に対して、あなた方は私を通して既に御父と繋がっているのだから、心配しなくていいとイエスは諭されます。

 わたしたちは直接イエスを見ることはできません。また、その言葉を直接聞くことはできません。それなのに、わたしたちにイエスの言葉が力強く響くのだとしたら、イエスがわたしたちを弟子たちと同じように御父と繋げてくださっているからでしょう。わたしたちに与えられる御父のいつくしみに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録6・1-7)・(第二朗読:1ペトロ2・4-9)