2026年05月02日の聖書の言葉

5月3日 復活節第5主日 ヨハネ14・1-12

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 ヨハネ福音書には、しばしばイエスを亡き者にしようというユダヤの人たちからイエスが逃れられる場面が記されています。例えば、神殿奉献記念祭が行われていたエルサレムの神殿で、ユダヤ人たちはイエスを捕らえて石で打ち殺そうとします(ヨハネ10・30)。この時、イエスはエルサレムを離れてヨルダン川の岸辺まで逃れて行かれます。この騒動の後、大して時間も経たないうちに亡くなったラザロを蘇らせてエルサレムへ入場されるのです(ヨハネ12・12)。

 イエスがエルサレムに入られた瞬間、弟子たちは周囲の不穏な雰囲気、イエスを亡き者にしようとする気配に気付いたことでしょう。今日の福音朗読箇所の直前には、イエスがご自分を裏切る弟子がいること、ご自分がこれから弟子たちには来ることができない所へ行くと告げられる場面が記されています。イエスが奪い去られてしまうかもしれない。そんな不安と緊張に押しつぶされそうになっている弟子たちに対してイエスが告げられた言葉が今日の福音書です。

 イエスに「心を騒がせるな」と言われても、弟子たちの動揺は収まりません。トマスがイエスの示された道を見せてくれと懇願する姿、フィリポが人であるイエスではなく神である御父の姿を一目見たいと訴える姿は不安に駆られた時の私たち自身の姿に重なります。イエスに付き従ってきた弟子たちでさえ、先行き不安なときには確かな保証や目に見える繋がりを求めてしまいます。そんな弟子に対して、あなた方は私を通して既に御父と繋がっているのだから、心配しなくていいとイエスは諭されます。

 わたしたちは直接イエスを見ることはできません。また、その言葉を直接聞くことはできません。それなのに、わたしたちにイエスの言葉が力強く響くのだとしたら、イエスがわたしたちを弟子たちと同じように御父と繋げてくださっているからでしょう。わたしたちに与えられる御父のいつくしみに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録6・1-7)・(第二朗読:1ペトロ2・4-9)