2026年07月25日の聖書の言葉

7月26日 年間第17主日 マタイ13・44-52

 そのとき、イエスは人々に言われた。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
 「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の朗読箇所が載っているマタイ13章には、イエスが「天の国」、すなわち神の統治がおよぶところを様々な事物にたとえてお話になる姿が紹介されています。からし種やパン種、それから畑に宝を見つけた人や高価な真珠を見つけた人にたとえられます。どれも、身近に見聞きできるものにたとえられているので、「そんなことにたとえられるのか」と不思議に思う分、印象に残ります。

 同じマタイ13章のなかには、イエスが弟子たちに「種を蒔く人」のたとえや「毒麦」のたとえの意味を説明される様子も記されています。弟子たちはイエスのお傍でいつもお話をきいているので、自分たちがどれほど恵まれた立場にいるのか気が付いていないのかもしれません。弟子たちは、み言葉を悟る機会にめぐまれており、刈り入れのときには選別されて倉に納められる側になるのでしょう。イエスは、たとえ話で弟子たちに恵まれない立場にいる人も多いことをそれとなく伝えられたのかもしれません。これに対して、弟子たちは天の国のたとえの説明は求めません。それどころか、イエスから「分かったか」と尋ねられた弟子たちは、躊躇(ためら)うことなく「分かりました」と応えます。

 私には、不思議に思える「天の国」のたとえ話なのですが、弟子たちはたとえ話を通して確かに「天の国」の在り方を見ているようです。主が教えてくださった祈りにある、「御国がきますように」(マタイ6・10)という言葉が実現するよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:列王記上3・5、7-12)・(第二朗読:ローマ8・28-30)


2026年07月18日の聖書の言葉

7月19日 年間第16主日 マタイ13・24-43

 そのとき、イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。
 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の天の国のたとえ話はよく考えると不思議なお話です。からし種はすごく小さいのに育てば驚くほど大きくなる植物であることや、ごくわずかなパン種を加えて生地をこねればパン生地全体が膨らむことは、特別なことではなく身の回りで普通に目にすることです。そのたとえから、「天の国」を思い浮かべるのはなかなか難しそうです。

 からし種は土の上に蒔いてしまえば、蒔いたか蒔いてないかわからなくなります。パン種を生地に混ぜてしまえば、入れたか入れてないかわからなくなります。でも、蒔いたか蒔いてないかで、入れたか入れてないかで、結果は大きく変わります。

 マタイ福音書のなかに出てくる「天の国」という言葉は、特定の場所というより神の統治が及ぶところを表現する言葉だそうです。私たちが「御国が来ますように」(マタイ6・10)と唱えるとき、私たちは自分の世界が御父の統治にゆだねられますように、と祈っています。イエスが「天の国」をからし種やパン種にたとえられたのですから、御父の御旨に従って生きることを受け入れても私たちの日常に目に見えるような変化はないのかもしれません。

 同じマタイ福音書13章で、イエスは「天の国」を、畑の宝を見つけた人(マタイ13・44)や、高価な真珠を見つけた人(マタイ13・45-46)のように、すべてを捨ててでも手に入れようとする姿にたとえられます。こちらに記されている一途な姿には確かに「天の国」の姿が重なって見えるような気がします。

 どうやら、私たちの日常は大きく変わらなくても私たちが追い求める姿勢自体は大きく変えられてしまうようです。私たちが、「天の国」を追い求める姿勢を大切にできるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:知恵12・13、16-19)・(第二朗読:ローマ8・26-27)


2026年07月11日の聖書の言葉

7月12日 年間第15主日 マタイ13・1-23

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。

 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、心で理解せず、
 悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音で朗読される「種を蒔く人のたとえ」(マタイ13・1-9)を初めて聞いたら、わたしたちでもちょっと戸惑うかもしれません。麦まきのときのありふれた光景をお話になっただけだからです。その当時の麦の耕作では、耕す前の畑地に適当に種をばらまいた後、鍬で耕起しながら覆土するのが普通だったそうです。日本のように、湿気を嫌う麦のために畝立てしてから間隔をあけて数粒ずつ播種(はしゅ)する点播(てんぱ)やすじ状に播種する条播(じょうは)が普通であった麦まきとは随分異なります。当時の麦まきのように適当にばらまけば、当然、畑周辺の岩や草むらにも種が飛び散ります。

 どうやら、聞いていた群衆だけでなく弟子たちも、なんのたとえ話なのか理解できなかったようです。イエスは弟子たちにむかって、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」(マタイ13・11)と言いながらも、ちゃんとたとえ話の意味を説明されます。マタイ13章の後半では毒麦のたとえ話(マタイ13・24-30)もなさいますが、同じように弟子たちにたとえ話の意味を説明されます(マタイ13・36-43)。

 ですから、先ほど引用したイエスの言葉(マタイ13・11)は、いまイエスを目の当たりにし、イエスの声を聞くことができる弟子たちにはイエスを通して御父に直接触れる貴重な機会が与えられていると諭すための言葉なのでしょう。現在を生きる私たちには聖霊を通してイエスと出会う機会が与えられていることに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ55・10-11)・(第二朗読:ローマ8・18-23)


2026年07月04日の聖書の言葉

7月5日 年間第14主日 マタイ11・25-30

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音箇所の前の部分(マタイ11・7-24)には、御父がヨハネを通じて呼びかけられたのに応えないイスラエルの民に怒りを覚えられるイエスの姿や、イエスご自身が顕わされた多くのしるしを目の当たりにしても悔い改めないイスラエルの町々に怒りをぶつけておられるイエスの姿が記されています。

 今日の福音の冒頭、イスラエルの民への呼びかけを知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者にお示しになる御父を、イエスがほめたたえておられます。ただ、知恵ある者や賢い者は御父の救いには与れない、ということではなさそうです。「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とイエスがおっしゃるように、たとえ知恵ある者でも、イエスが示してくださらない限り気づけない、ということなのでしょう。逆に、イエスが示してくだされば、知恵をもたない幼子のような者でも気づくことができます。まさに、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)のです。

 洗礼者ヨハネが悔い改めるように呼び掛けても、イエスが示された多くのしるしを見ても、悔い改めることができなかったイスラエルの人々に対して、イエスはわたしの軛(くびき)を負うように、と呼びかけられます。軛は2頭の牛を繋げて農具を引かせるための横木です。御父の救いに与るための唯一の方法は、イエスと共に歩むことだ、ということでしょう。わたしたちもイエスの呼びかけに応えられるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:ゼカリヤ9・9-10)・(第二朗読:ローマ8・9、11-13)