
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

今日の朗読に出てくるフィリポ・カイザリア地方はガリラヤ湖の北、ヘルモン山の南麓に位置しています。マタイ福音書の次の章にはイエスが弟子たちを連れて高い山に登る場面が出てきますが(マタイ17・1)、その高い山はヘルモン山だとする人もいます。
ヘルモン山を望む地で、イエスは弟子たちに「人々がご自分のことを何者だと言っているのか」とお尋ねになります。弟子たちが答えた内容から、当時の人々がイエスを処刑されたばかりの洗礼者ヨハネと混同していたり、旧約時代の預言者の再臨だと受け止めたりしていて、イエスが神から遣わされた御子だとは理解していないことがうかがえます。イエスは、人々がご自分を誤解していることを正そうとはなさいません。それどころか、弟子たちにご自分の本当の姿は人々に対して伏せておくようにお命じになります。
ペトロをはじめとする12人の弟子たちは、イエスからイスラエルの町や村に派遣されますが、このときイエスから「汚れた霊に対する権能」を授かります(マタイ10・1)。イエスに付き従ってきた弟子たちは、イエスを通して神の存在を何度も体験します。その体験の積み重ねがあったから、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と即答することができたのでしょう。私たちもイエスを通して神を体験できるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ22・19-23)・(第二朗読:ローマ11・33-36)

そのとき、イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

今日の福音書に出てくる地名、ティルスとシドンは、現在のシリアにあたるフェニキア南部の地中海に面した海岸都市です。イエスは主にガリラヤ地方を中心にして宣教されていたのですが、この時はイスラエルから北に離れた異邦人の土地へも宣教に赴かれていたことが分かります。
当然、イエスのことを聞きつけて集まってくる人たちの中にはユダヤの民ではない人も大勢います。今日の福音書に描かれている娘の病気を治したい一心でイエスに会いに来た婦人もその中の一人でした。
弟子たちはイエスがガリラヤ地方で集まって来る群衆のなかに病人がいれば、何人でも癒される姿を見てきています。その弟子たちが「この女を追い払ってください」(マタイ15・23)とイエスに告げているのですから、ティルスとシドンでは群衆に対するイエスの対応が異なると感じていたのでしょう。
今日の婦人の姿は、ルカ福音書に記されている不正な裁判官と未亡人となった婦人の姿(ルカ18・1-8)を思い出させます。不正な裁判官であっても、「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」(ルカ18・5)と考えます。
イエスが婦人にむかって「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と告げられた言葉は、婦人の信仰を試す言葉ではなく、弟子たちに求め続けることの大切さを諭すための言葉だったのかもしれません。今日の福音書の最後の言葉は、信仰があればユダヤの民も異邦人も等しく救われるという、イエスの励ましのように心に響きます。イエスがいつも私たちを励ましてくださっていることに感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ56・1、6-7)・(第二朗読:ローマ11・13-15、29-32)

人々がパンを食べて満腹した後、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

ペトロは漁をしているときにイエスに声を掛けられたのがきっかけで、イエスに付き従うようになります。当然、荒れたガリラヤ湖の怖さを十分経験しています。ところが、水の上を歩いて近づいてこられたのがイエスだと分かると、嵐への恐怖を忘れて「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と叫びます。日頃から心のなかのどこかで望んでいなければ、イエスの姿を見てとっさにこんな言葉にでるはずがありません。きっと、ペトロは「いつか湖の上を歩いてみたい」と心のどこかで思っていたはずです。
その望みが叶って歩き出した途端、強い風を感じて恐怖心に囚われたペトロは水に沈んでしまいます。ペトロの心の中の望みを素直に口に出してしまう姿、怖くなって沈んでしまいイエスから
この朗読箇所に描かれているペトロの姿を、私はとても気に入っています。完全無欠とは程遠いけれども、誰よりも深くイエスを信頼しているペトロの姿から、イエスの前に出る時に私たちになにが一番大切なのかが伝わってきます。ペトロのようにイエスを信頼する心がもてるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:列王記上19・9a、11-13a)・(第二朗読:ローマ9・1-5)

イエスは、洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

今日の福音朗読箇所で、イエスはご自分の後を追って集まってくる人々に強く心を痛められます。イエスが「大勢の群衆を見て深く憐れみ」と記されている箇所の「憐れむ」と翻訳されている言葉には、「はらわたが千切れるような痛みを感じる」という意味がこめられているそうです。
マタイ福音書にはどうしてよいかわからず困り果ててイエスを頼ってくる群衆に、イエスが分け隔てなく助けの手を差し伸べられる姿が繰り返し描かれます。イエスが心を痛められるのは、群衆の様子が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9・36)からです。この群衆のなかの多くの人は、病気や体の障害や生活の貧しさのため律法に従った「正しい生活」をおくるのが難しい人たちなのでしょう。この人たちが、「打ちひしがれている」のは自分たちが「救い」にあずかるのは難しい、と絶望しているからです。自分たちの痛みに共感してイエスが手を差し伸べて下さっていると分かった瞬間、人びとは大いに勇気づけられたはずです。
群衆が、イエスが山から下りてこられたり、湖を渡られたり、今日の福音書のように一人になっておられたところへ集まってくるのは、イエスの姿を見ると自分たちが救いから見放された存在ではないと実感できるからです。イエスの言葉にわたしたちも勇気づけられるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ55・1-3)・(第二朗読:ローマ8・35、37-39)