
安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

イエスが婚宴に招待されたときに上席に座りたがるひとの様子をみて、たとえをお話になります。その内容は「招待した人から勧められるまでは、末席に座っていましょう」です。なぜ、こんな社会人のマナー講座のようなお話をされるのかといえば、私たちが御父に自分の行いを認めてもらいたい、という願望を抱いてしまうことが多いからでしょう。
御父が招いてくださる宴席では、わたしたちはみな招いてくださった方へお返しができない弱い立場に置かれています。そんな立場で、自分の行いは御父に認められているのだから、他の人よりも御父に近いところにいるべきだ、などと思えるひとはいないはずです。
イエスは御自分を招いたひとたちにも、お返しを期待できないひとを宴会に呼ぶよう諭され、他人に手を差し伸べるときに見返りを求めない姿勢を尊ばれます。わたしたちはお返しを他の人に求める必要はありません、御父がすべて報いてくださるからです。招かれる立場になっても、招く立場になっても、御父は私たちひとりひとりをみておられます。
御父はお返しを求めることなく弱い立場にあるわたしたちを招いてくださってるのですから、招かれた私たちの立場に違いなどありません。
すべてのひとが同じ立場で御父のもとへと招かれていることに感謝して招きに応えることができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:シラ3・17-18、20、28-29)・(第二朗読:ヘブライ12・18-19、22-24a)

そのとき、イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

イエスに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたひとは、いったい何を知りたかったのでしょう。自分が救われるかどうか、に関心があるなら、「主よ、わたしは救われるでしょうか」と尋ねれば済むことです。
救いに関心があるのにこんな質問をするひとは、自分は救われると思い込んでいて自分より他人の救いが気になるひとくらいです。イエスも、そう思われたに違いありません。今日の福音書の最後の言葉、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」は、質問したひとに対して、イエスが「そう思っているあなたが救われるのは、一番後になる」と諭されたように聞こえます。
門の外に取り残されて、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と訴える人たちがいます。これを聴いて、イエスに従っている多くの弟子たちやイエスの話を聞くために集まっている人たちは、「自分のことだろうか」とドキッとしたでしょう。きっと、イエスは周りのひとがしているから同じようにする、という姿勢を咎めて「入ろうとしても、入れない人は多い」、と言われたのです。
花婿を出迎える10人のおとめ(マタイ25:1-13)のたとえにあるように、ひとりひとりが自分のこととして神の国、救いの
自分が御父の招きに応えるなら、どの途が相応しいか自分自身で決めることができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ66・18-21)・(第二朗読:ヘブライ12・5-7、11-13)

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

「そうではない、むしろ分裂だ。」というイエスの言葉を聴いて、ふとイエスのお話で極端に扱いが違う人達が出てくるたとえ話を思いだします。金持ちとラザロの話(ルカ16・19-31)では、生前、贅沢に暮らした金持ちは、炎の中で喉の渇きを潤すこともできない苦しみの中にいるのに、貧しかったラザロは宴会の席でアブラハムの横に座っています。有名なタラントンのたとえ(マタイ25:14-30)では、預かった5タラントンを使って5タラントンを儲けた
どうやら、イエスは今まで私たちが些細な違いと思って、うやむやにしてきたことに対して、決して些細なことではないぞ、と怒っておられるようです。
「主人の思いを知りながら何の準備」もしなかった僕、あるいは「主人の思いどおりにしなかった」僕はひどく罰せられます(ルカ12:47)。御父が望んでおられることを知っていながら実行しなかったとしたら、御父のみ旨を裏切るとしたら、たとえ些細な事柄であっても御父は厳しく罰せられる、と大声で叫んでおられます。
イエスはすべての不誠実、不公平を正すために来られたはずです。わたしは「分裂」をもたらすために来た、と言われたイエスのお言葉は「些細なこと」と思う心とはキッパリと決別しろ、と言われているように聞こえてきます。
些細なこととは思わず、御父が望んでおられる行いができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:エレミヤ38・4-6、8-10)・(第二朗読:ヘブライ12・1-4)

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

今日の「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」の前には「尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。なるほど、天に富を積むことができれば、そのひとの心は天にあるといって良さそうです。でも、そもそも天に宝を積むにはどうすればいいのでしょう。
善きサマリア人のたとえ(ルカ10・25-37)のように、隣人を愛することでしょうか。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)のように、社会の中で弱い立場にいるひとに手を差し伸べることでしょうか。
今日の福音の前には、「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」(ルカ12・24)とお話されています。私たちは、ひとりひとりが御父にとって大切な存在です。わたしたちの地上での行いで御父から見たわたしたちの価値が多少でも損なわれたり、高められたりすることは多分ないのでしょう。
そう考えると、わたしは「大切な存在」だと気づくことこそ、御父がお求めになっていることだと分かります。御父がわたしを大切にしてくださっていることへの感謝と御父への信頼こそ天の国に宝を積むことに繋がるのだと思います。
御父がわたしたちを深くいつくしんでくださっていることを感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:知恵18・6-9)・(第二朗読:ヘブライ11・1-2、8-19)

そのとき、群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

イエスが、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われた理由を考えてみました。この言葉は遺産の分配が不公平だと訴える話の後にでてくるので、富への執着を戒めるメッセージ、と受け止めてもよさそうです。ただ、イエスのお話を聞いているのは、僅かばかりの節約に四苦八苦することはあっても必要以上の富を得る機会などない人が大部分でしょう。
今日の福音に出てくる金持ちは、滅多にない豊作で倉に収まり切れない穀物のために新しく倉を建て増したにすぎません。そして、蓄えがあるので当分は安心、と自分に言い聞かせます。これくらいなら、特別に強欲でなくても同じようにするでしょう。
この金持ちにとって悲劇なのは、死が目前に迫っているのに本人は当分安心して過ごせる、と思い込んでいるところです。富に貪欲であろうとなかろうと、死は訪れます。このたとえ話を聴くと、先ほどのイエスのメッセージは富で満たされて安心する私たちの心の中に警鐘が鳴らされている気がしてきます。
富に限らず、果たして自分が求めているものは神の前にもって出ていけるものなのか、よくよく考えなさいね、というメッセージも込められているのでしょう。
自分が求めているものを深く見極めて、神の前に出ていくことができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:コヘレト1・2、2・21-23)・(第二朗読:コロサイ3・1-5、9-11)