
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

今日のルカ福音書のなかの、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と同じ言葉がマタイ福音書(マタイ7・7)にもあります。ケセン語訳聖書の執筆者である山浦玄嗣氏によれば、このマタイ福音書の原文(ギリシャ語)は、"〇〇せよ"という単なる命令形ではなく"〇〇し続けよ"という命令形で記されているそうです。
そう思って、改めて読んでみると、たとえ最初は断られても「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」、とちゃんと記してありました。イエスは、本気で求めるなら、門をたたき続けろ、と言われているのです。
でも、私たちは本当に必要なものなら、いつまでも探し続けるでしょうし、本当に欲しいものなら、言われなくても求め続けるでしょう。なぜ、イエスはそんな当たり前のことをわざわざおっしゃるのでしょう。
もしかすると、イエスは私たちが求めても与えられないとあきらめてしまうことが多い弱い存在であることに気が付いておられたのではないでしょうか。イエスの言葉は、本気で求め続ければ必ず天の父は応えてくださる、と私たちを励ましてくださっているように聞こえます。
イエスの言葉に従って、私たちが本気で神に願い求める続けることができるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:創世記18・20-32)・(第二朗読:コロサイ2・12-14)