2025年07月26日の聖書の言葉

7月27日 年間第17主日 ルカ11・1-13

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

 『父よ、御名が崇められますように。
 御国が来ますように。
 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
 わたしたちの罪を赦してください、
 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日のルカ福音書のなかの、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と同じ言葉がマタイ福音書(マタイ7・7)にもあります。ケセン語訳聖書の執筆者である山浦玄嗣氏によれば、このマタイ福音書の原文(ギリシャ語)は、"〇〇せよ"という単なる命令形ではなく"〇〇し続けよ"という命令形で記されているそうです。

 そう思って、改めて読んでみると、たとえ最初は断られても「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」、とちゃんと記してありました。イエスは、本気で求めるなら、門をたたき続けろ、と言われているのです。

 でも、私たちは本当に必要なものなら、いつまでも探し続けるでしょうし、本当に欲しいものなら、言われなくても求め続けるでしょう。なぜ、イエスはそんな当たり前のことをわざわざおっしゃるのでしょう。

 もしかすると、イエスは私たちが求めても与えられないとあきらめてしまうことが多い弱い存在であることに気が付いておられたのではないでしょうか。イエスの言葉は、本気で求め続ければ必ず天の父は応えてくださる、と私たちを励ましてくださっているように聞こえます。

 イエスの言葉に従って、私たちが本気で神に願い求める続けることができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:創世記18・20-32)・(第二朗読:コロサイ2・12-14)


2025年07月19日の聖書の言葉

7月20日 年間第16主日 ルカ10・38-42

 そのとき、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音はマリアとマルタの姉妹のさりげない日常の一コマを取り上げています。妹のマリアにもお手伝いをするように言ってください、とイエスに訴えるマルタとマルタの気苦労に気づかずにイエスのお話に聞き入っているマリアの姿が目に浮かぶようです。

 些細なことで、イエスに文句をいうマルタをイエスはやさしく慰められます。「マルタ、マルタ」と二度続けてイエスが名前を呼ばれるところからは、イエスの気遣いが伝わってきます。そんなイエスがマルタに対して、「もてなす」よりも「話を聞く」方が大切だ、とおっしゃるとは思えません。

 必要なことはただ一つだけである、と言われたその一つとは「イエスを迎え入れる」ことです。マルタにとっては迎え入れるときに「もてなす」方が良いことだったけれど、マリアにとっては迎え入れるときに「お話を聞く」方が良いことだったのです。
 イエスを迎え入れるにあたって、マリアはマリアにとって良い方を選んでいるのだから理解してあげなさい、というのが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という言葉の真意なのでしょう。

 イエスを迎える時の私たちの姿勢は人によって異なることでしょう。他人の姿勢をみるよりも自分がより良い姿勢でイエスを迎え入れることができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:創世記18・1-10a)・(第二朗読:コロサイ1・24-28)


2025年07月12日の聖書の言葉

7月13日 年間第15主日 ルカ10・25-37

 そのとき、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音では、律法の専門家がイエスを試そうとして、「永遠の命を受け継ぐ」ために必要な事柄について尋ねます。これに対してイエスは、「律法になんと書いてあるか」と逆に質問されます。専門家の答えは、律法学者から一番大切な掟について尋ねられた時のイエスのお答え(マルコ12・29‐31)と全く同じでした。

 これに対して、イエスは、分かっているなら実行せよ、とだけ言われます。イエスに難癖をつけようとしていた専門家は質問を変えて「私の隣人とはだれですか」、と再びイエスに質問します。イエスが隣人の範囲を広くすれば広いことを、狭くすれば狭いことを批判しよう、とでも考えたのでしょう。

 ところが、イエスは善きサマリア人のお話をされてから、「誰が襲われた人の隣人になったか」と専門家にお尋ねになります。専門家が「その人を助けた人です」と答えると、イエスは「同じようにしなさい」と返されました。イエスが「隣人を自分のように愛しなさい(マルコ12・31)と言われるときの「隣人」は、あらかじめ決まってはいません。
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7・12)」とあるように、自分が困っている時には助けてもらいたいと思うなら、助けを必要する人には手を差し伸べなさいというのが、「隣人を自分のように愛する」という言葉の意味なのです。

 もし、専門家がイエスに「隣人」について質問してくれていなかったら、私たちも同じような思い違いをしていたかもしれません。隣人は近しい人や親しい人ばかりでなく、常に私たちの周りに現れます。私たちが自分の周りの「隣人」に気付くことができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:申命記30・10-14)・(第二朗読:コロサイ1・15-20)


2025年07月05日の聖書の言葉

7月6日 年間第14主日 ルカ10・1-12,17-20

 そのとき、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 弟子たちが村や町に派遣される場面の冒頭で、イエスが「収穫は多いが、働き手は少ない」と言われます。これは、救われる準備ができている人は多いけれど、その人たちの救いの準備を手助けできる人が少ない、という意味だそうです。イエスは、弟子たちを人々の救いの手助けするようにと派遣されます。

 イエスは弟子たちに、最小限の持ち物で出かけ、食や住は施しを受けるのではなく、神のために働く人に対する当然の権利として受け取るように命じられます。弟子の立場でイエスのお言葉を聞いていると、この辺りで不安になってきます。人々が自分たちを受け入れなかったら一体どうしたらいいのだ、と考えてドキドキしてきます。

 イエスは、弟子を迎え入れない村や町への対応も示されます。その内容はとても厳しいものです。受け入れた村や町での対応と、受け入れない村や町への対応との間には極端な違いがあります。派遣先でこのように厳しい決断を迫られる立場になると分かれば、弟子たちは派遣にあたって相当な覚悟が必要だったに違いありません。

 ところが、弟子たちは派遣先から帰ってきて、「実際に行ってみると歓迎されて悪霊に対して神の権能を示せた」、と喜んで報告しています。イエスは最初から弟子たちに大きな権威をお与えになっていたのです。弟子たちが心配するようなことは多分起こらなかったのでしょう。

 私たちも御父である神から覚悟を迫られることがあります。御父の願いに覚悟をもって応えられるようイエスからの大きな助けを求めて、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ66・10-14)・(第二朗読:ガラテヤ6・14-18)