そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
本日の福音書の最後の言葉「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」をかみしめたいと思います。
人はみな自己中心である。すべての人は自分をはかる物差と他人をはかる物差と二つの物差を持っている。この自己中心こそが罪なのである。・・・そして自分が罪深いなどとは全く考えていない、そのことが一番罪深いことなのである。
~~ 三浦綾子 著『光あるうちに』より ~~
祈りましょう。
まず、自分に甘く人に厳しい物差を持っていることを自覚したいと思います。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(ルカ6章41節)という御言葉を噛みしめて、誘惑に弱く、罪深い人間であり、神様から赦される恵みをいただいて生かされていることに感謝して、生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:サムエル上26・2、7-9、12-13、22-23)・(第二朗読:1コリント15・45-49)
そのとき、イエスは十二人と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
ガリラヤ湖は小高い丘に囲まれた場所にあります。おそらくイエスは湖を背に、弟子たちに向けて、これからイエスの弟子として受けるであろう様々な迫害について話されました。
「貧しく」「飢え」「泣き」「憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」とき、「喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。だから幸いなのだ」と宣言し、励ましてくださったのです。
続いて4つの「不幸」について話されました。「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、「富んで」「満腹し」「笑い」「褒められる」とき、有頂天になって神の存在を忘れることがないように警戒しなければなりません。「順風満帆な時の神忘れ」に注意しなければならないのです。
祈りましょう。
人からの評価を優先し、苦しむ人の存在から目をそらすことがありませんように。苦しい時も喜びの時も、いつも共にいて支えてくださる神様を見失うことがありませんように。 アーメン。
参考:(第一朗読:エレミヤ17・5-8)・(第二朗読:1コリント15・12、16-20)
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
本日の福音書から、2つの言葉「お言葉ですから」と「捨てる」に注目したいと思います。
シモンは「お言葉ですが」とは言わずに「お言葉ですから」と、イエスの言葉に従う道を選びました。そしてそのことが、生涯を決定づけることに繋がっていったのです。
彼は舟や網など「すべてを捨てて」イエスに従いました。私たちが新たな道へと踏み出すときに、捨てなくてはならないものとは何でしょうか? 「生活のリズムを変えたくない」という気持ちや「プライド」が相当するのかもしれません。
祈りましょう。
私たちが、シモン・ペトロに倣って、自分の知識や経験に固執することなく、「お言葉ですから」と、主の招きに応えて受け入れる心と素直さを持つことができますように。そして変化を恐れることなく、真に大切なものを見極める目と、不要なものを捨て去る勇気を身に着けて生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:イザヤ6・1-2a、3-8)・(第二朗読:1コリント15・1-11)
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
本日の福音は、ヨセフとマリアが生まれたばかりのイエスを伴って、律法の定め通りにエルサレム神殿にお参りに行った場面です。
「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」と記されています。捧げ物について律法には細かい規定が設けられていました。「なお産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、・・・・・・」(レビ記12章8節)との規定から、一家の貧しさを読み取ることができます。
神殿で出会ったシメオンは、幼子イエスを腕に抱き神を讃えた後に、マリアに向かって「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と告げました。イエスのご誕生の場面では、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ福音書2章19節)と聖書は伝えています。
受胎告知から十字架の下に至るまで、マリアは、神の御言葉を受け入れ、観想した信仰者でした。
祈りましょう。
聖母マリアに倣って、すぐには理解できないことや受け入れ難いことであっても心に納めて、祈りの内に歩んでいくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:マラキ3・1-4) ・ (第二朗読:ヘブライ2・14-18)