わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
さて、イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
ナザレに帰ったイエスは、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に入られました、当時、ユダヤ人であれば誰でも会堂で聖書を朗読し、話す事ができました。イエスが渡されたのはイザヤ書(61章1-2節)でした。
朗読の後、すべての人の目が注がれる中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話さたのです。
このイザヤ書の言葉は、預言者の口を通して語られたメシアの言葉です。メシアとは、神から油注がれた者(=祝福され、特別な使命が与えられた者)であり、神から遣わされて、貧しい人たちに福音を告げる、すなわち「捕らわれからの解放を、視力の回復、圧迫からの自由をもたらし、主の恵みの年を告げる」使命を帯びているのです。そのようなメシアの到来を預言者は告げていたのです。イエスは集まった人々に向かって、御自身が旧約の預言者が告げたメシアであることを宣言されたのです。
二千年前ナザレの会堂に集まった人々に向かって語られたイエスの御言葉は、現代を生きる私たちにも向けられています。生活の煩いに翻弄され、神の恵みが見えにくくなってしまった私たちの目を開き、生活の圧迫に押しつぶされそうな私たちを自由にすると宣言してくださっているのです。
祈りましょう。
イザヤ書に記された救いのメッセージを味わい、主の恵みの年を告げてくださるイエスの御言葉に心を開くことができますように。「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの御言葉に信頼して、希望をもって歩んでいくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10)・(第二朗読:1コリント12・12-30)
そのとき、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
「カナでの婚礼」
イエスの最初の奇跡として、ヨハネ福音書にのみ記されています。恵み(水をぶどう酒にかえる)は神からのものです。私たちにできることは、「神を信頼すること」、そして「協力者として働くこと」であることを今日の福音書は教えてくれています。
協力者として登場するマリア、召し使いの果たした行動をまとめてみましょう。
*母マリア:ぶどう酒がなくなったことをイエスに伝える。召し使いに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と頼む。
*召し使い:マリアの依頼に応えて、イエスが言われたとおりに、6つの水がめに水を満たす。宴会の世話役のところに持っていく。
「婦人よ・・」と、やや突き放した感じがするイエスの言葉でしたが、「マリア」はさりげなくイエスのなさることに協力しました。また「召し使いたち」も、マリアの依頼を受けてイエスの言葉に従い協力したことが、恵みにつながったのです。
祈りましょう。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3章1節)、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(同・11節)とあるように、私たちは神様のご計画を知ることはできません。でも願い求めることはできることを、今日の福音書は教えてくれています。私たちの祈りに神様がいつ応えてくださるのか、あるいは異なる応えがあるのかも知れません。
マリアと召し使いに倣って、神を信頼してお任せすることができますように。そして「水がめに水を満たす」ように、できるお手伝いを果していくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:イザヤ62・1-5)・(第二朗読:1コリント12・4-11)
そのとき、民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
ルカ福音書は、大切な場面でイエスが祈っておられたことを繰り返し伝えています。今日の福音書でも、洗礼を受けた直後に「祈っておられる」と、「天が開け」「聖霊が目に見える姿でイエスの上に降って来た」「わたしの愛する子という声が聞こえた」という不思議な出来事が3つ起こったことが記されています。
十二使徒を選ばれたのは、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(6章12節)翌朝のことでした。またご変容の場面でも「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9章29節)と記されています。オリーブ山(ゲツセマネの園)での「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」の祈りの折にも「天使が天から現れて、イエスを力づけた」(22章43節)と記されています。そして十字架上では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23章46節)と、祈りの内に息を引き取られました。
イエスにとって祈りとは、父なる神と特別な親しさの中にある大切な時間であることを、そのご生涯を通して教えてくださったのです。
主の洗礼の主日に祈ります。
父なる神よ、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスにあなたは聖霊を注ぎ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されました。洗礼によって新たに生まれ、あなたの子とされたすべての者を、あなたの愛する子として迎え入れてください。私たちがイエスに倣い、祈りの人となって、あなたの御旨に適う者として生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(第一朗読:イザヤ40・1-5、9-11)・(第二朗読:テトス2・11-14、3・4-7)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
本日の登場人物「占星術の学者たち」とはどのような人たちだったのでしょうか? 科学の進んだ現代でも「星座占い」は愛好されていますよね。3世紀中国の諸葛亮孔明、平安時代の陰陽師として名高い安倍清明など、占星術は広く重大な決断の場で使われてきました。
しかしユダヤ人は違っていたのです。「あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない」(レビ記19章26節)とあるように、律法で占いは禁止されていたのです。その星占いの学者たちが、こともあろうにユダヤ人が待ち望んでいたメシア誕生をヘロデ王に知らせにきたのです。
ヘロデ王が学者たちに聖書の記述を調べさせ、メシア誕生の場所を探り出して、ローマ帝国の支配から解放してくれる期待のかかるメシアを殺そうと企んだのはなぜなのでしょうか? 理解するポイントは「ヘロデ王はローマ帝国に取り入ることによって王にしてもらった人物であり、ユダヤ人の支持を受けて王になったのではない」ことにあるようです。メシア誕生の知らせに不安に感じたのは、ヘロデ王の周辺にいたエルサレムの人々も同様であったと聖書は伝えています。彼らに共通するもの、それは今の生活を変えたくないという考え方にあるのではないでしょうか。
ご公現の主日に祈ります。
私たちが、神様からの最高の贈り物を、よき知らせとして喜んで受け入れることのできる心を持つことができますように。そして、今も孤独な人、苦しむ人と共におられるキリストを見失うことなく、生きていくことができますように。 アーメン。
◆参考「時代背景について」
ユダヤ人たちは、待ち望んでいた救い主を「ダビデの子」と呼んでいました。「メシア」はヘブライ語で「油注がれた者」という意味で、神に選ばれた偉大な王を指す言葉です。ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちは、偉大なダビデ王やソロモン王のようなメシアが現れて、ローマ軍を武力で打ち破り、解放してくれる日を待ち望んでいたのです。
*「メシア」のギリシア語訳が「クリストス」(日本語表記で「キリスト」)です。
*「イエス・キリスト」と呼ぶことは、ナザレのイエスがメシアである(イエス=キリスト)という信仰告白を意味しています。
参考:(第一朗読:イザヤ60・1-6)・(第二朗読:エフェソ3・2、3b、5-6)