第九回「石は語る」
パレスチナ地方は、「エジプト」と「メソポタミア」という二大文明に挟まれた場所にあり、古くから人や物の往来が盛んな地域でした。旧約聖書の舞台であり、イエス・キリストがご生涯を送られ、宣教活動を行われた聖地です。
旧約聖書に登場する地名が多く残っています。それらの記述の史実性を確認するために、遺跡の発掘調査が行われてきました。掘り出された石は、長い年月を隔てた古代からのメッセージを伝えてくれます。また調査時に出土した土器の形式や放射性炭素年代測定などの科学的測定法によって年代を推定し、繁栄時の街の姿を垣間見ることができるのです。
「カイサリア」
ヘロデ大王(在位:紀元前37年~紀元前4年)は地中海に面したこの地で港の大改修を行い、紀元前10年に円形劇場、競技場、神殿、ローマ総督の館を備えた港湾都市を完成させ、ローマ皇帝の名前にちなんで命名しました。「水道橋」を建設し、水をカルメル山麓から運び入れていました。
ポンテオ・ピラト総督(在位:26年~36年)は、平時はカイサリアに滞在し、過ぎ越し祭など大勢の人が集まる時にエルサレムに出かけたと考えられています。遺跡から総督ピラトの名前が刻まれた碑文が見つかり話題となりました。
パウロがカイサリアの港を経由して宣教旅行を行ったことが「使徒言行録」(18章、21章)に記されています。現在、パウロが2年間監禁された(同24章)とされる牢獄跡の発掘が進められています。
「ヘロデ大王が築いた城壁の特長」
ヘロデ大王は11年かけてエルサレム神殿の大改築を行いました。石をわずかに内側にずらしながら積み上げることによって、城壁が手前に倒れてくると感じる目の錯覚を防ぐ工夫がなされています。エルサレム城壁の多くはユダヤ戦争(70年)によって破壊されましたが、ヘロデによる面取りされた石垣の一部は現在まで遺されています。
ヘロデは妻や息子を処刑し、子どもを皆殺しにする(マタイ福音書2章16節)残虐なイメージの強い王ですが、土木事業には長けていたようです。
「嘆きの壁」
ローマ帝国によって破壊されたエルサレム神殿の壁の一部が遺されていて、世界中から多くのユダヤ人が訪れて、祈りを捧げている姿を見ることができます。
男性と女性は祈る場所が別々に決められています。また男性は「キッパ」と呼ばれる布製の帽子を頭に載せることによって神に対する謙遜な気持ちを表すことが求められています。私も観光客用のキッパをお借りして、父なる神に祈ることができました。
「糞門」
城壁の南側にあります。昔は街の汚物の搬出に使ったために名付けられました。旧約聖書「ネヘミヤ記」にもその名が登場します。狭き門でしたが、1952年に拡張されました。嘆きの壁に最も近い門であり、乗物にとって主要な通りとなっています。
エルサレム城壁には、「黄金門」「ライオン門」など、全部で8つの門があります。
「エリコ」
死海の北西部にある古代オリエントの中でも古い町(世界最古の町と評されることもあります)で、紀元前7800年には周囲を壁で囲った集落が出現していました。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し登場します。
「善いサマリア人のたとえ」(ルカ福音書10章)で「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。・・」とありますが、エルサレムは+700mと標高が高く、エリコは-258mと標高の低い街なのです。
ザアカイがイエスを見るために登った(ルカ福音書19章)とされるいちじく桑の木が遺されています。
「メギド」遺跡
イズレエル平野を展望する戦略的拠点である「メギド」の町では、3千年以上の昔から戦いが繰り広げられてきました。町が破壊されると、瓦礫の上に石を積み上げて新たな町を築くという歴史を繰り返し、現在20もの層が見つかっています。上から4番目の層は、紀元前10世紀のソロモン時代のものであり、復元された城門を見ることができます。
「死海写本」
1947年、ベドウィンと呼ばれる遊牧民の青年によって、クムラン洞窟(ヨルダン川西岸の死海付近)内にあった素焼きの壺の中から羊皮紙に書かれた旧約聖書ほぼ全部の写本などが発見されました。
紀元前2世紀終わりごろからこの地域に、労働や祈りを捧げ、修道生活をおくるエッセネ派(ユダヤ教の一派)と呼ばれる教団がありました。洗礼者ヨハネもこの共同体の出身ではないかと言われています。
西暦66年にローマ軍がエルサレムに攻めてきたために、写本を入れた壺を岩山の洞窟に隠しました。それから1900年間、イスラエルの乾燥した気候の中で羊皮紙に書かれた写本は完璧な状態で遺されたのです。
心のともしび運動 阿南孝也