フランシスコ・ザビエルは、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師です。1549年8月15日鹿児島に上陸。その後平戸、山口、そして京都へ上京したが、焦土と化した都を後に、再び山口に戻り大名・大内義隆より裁許状を受け宣教を始めた。その後、大友宗麟に招聘され豊後(大分)へ。後に中国へ渡るためインド・ゴアに戻り、ゴアから中国本土を目指したが、本土を目前に広東の近く上川島で病に倒れ1552年12月3日帰天した。フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラと並んで会の中心人物です。
因みに、ザビエルはバスク人でバスク語によると"シャビエル"と発音します。そこで山口県山口市にある"サビエル記念聖堂"では、バスク人の神父により"ザ"ではなくシャに近い"サ"とし、"サビエル"と呼んでいます。また彼の熱き宣教魂は、宗派を超えて師と仰がれ多くの国で崇敬されています。カトリックの聖歌の中で『♪行け♪行け地の果てまで、救いの訪れを告げるために』と繰り返し歌う歌詞は、ザビエルに因んで作られた聖歌とも言われています。
無原罪の聖マリアについて1854年ピオ9世は、「聖マリアの無原罪の宿り」を信仰箇条として宣言しました。「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた」(DS2803)と。因みに、この宣言から"無原罪"についての教義が発展しました。マリアの場合、原罪がなかったと言えますか?いつ許されたのですか?このように罪の面から見て行くと解決できません。
しかし、マリアの場合は、「赦すことではなく、罪から免れた、守られていた」とします。では初めから罪がないなら救われていないのではないですか?「救いはただ悪いものを直すのではなく、確かなものであれば"守る"ことも救いの概念に入ります」としたのです。このように無原罪の聖マリアの教義は制定され、現在に至っています。
「元后憐れみの母(サルヴェ・レジ-ナ)」の歌詞の中で、"我らのために執り成す方。憐れみの目を我らに注ぎ、尊いあなたの子イエスを旅路の果てに示してください。おゝ慈しみ、恵み溢れる喜びの乙女マリア"と歌われます。この言葉は、代々信者に注がれてきた聖マリアに対する崇敬を歌に託したものなのです。特に司祭、修道者の方々にとって、この歌は"慰め、励まし、喜び"を表すものとして、現在でも必ず朝に夕に祈りとともに歌われています。今日この日、聖マリア様の歌を口ずさんでみませんか。あなたの心の中にも、きっと溢れる喜びが湧き上がって来るでしょう。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生れになった」(マタイ2:1)。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に包んで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:6)。イエス降誕の記述は、マタイ福音書とルカ福音書にあるだけです。また、聖書には降誕日の記述はありません。12月25日を主の降誕とした記録は、354年ローマの『年代記』の「12月25日、ユダヤのベツレヘムでキリストが生まれる」という記述と、336年の同じ『年代記』に主の降誕の祝いを12月25日にしたと記されているようです。そこからローマの教会では、4世紀に初めて主の降誕に関する記録が残されたようです。最近12月25日のクリスマスは「キリストのミサという意味で、イエス・キリストの誕生日ではない」"と囁かれていますが、キリスト教では12月25日を主の降誕と定めた経緯を次のように説明します。
これには二つの仮説があります。一つは、イエスの受難の日とマリアへの受胎の日が同じ日であったと考え、その日を3月25日であったとして、それから受胎の日から9か月後の12月25日にイエスが生まれたとする説です。もう一つは、ローマ皇帝アウレリアヌスが274年に、ローマ暦の冬至に当たる12月25日に太陽神の誕生日を祝っていた祭りをイエス・キリストの降誕日にしたという説です。
また教会暦で言われる一日は、24日の日没から次の日25日の日没までを一日とします。そこで24日の日没からクリスマスが始まり、25日の日没に終わることからイエスの降誕日は、ローマの古い伝統にしたがって24日の夜半、25日早朝、そして日中の三回、特別なミサを行なっています。ちなみに日本で初めてクリスマスのお祝いをしたのは、1552年山口で信者と共に祝ったことをルイス・フロイスの著書「日本史」の中に記述されています。現在も山口サビエル記念聖堂では、待降節から降誕節の期間中、聖堂前の庭に等身大の馬小屋が飾られます。そして24日の夜半には、大勢の市民が聖堂内に集い、山口市の混声大合唱団の荘厳な歌声と共にイエスの降誕を祝うミサが始まります。同時にサビエルの鐘が街中に鳴り響きます。今年は残念ながら例年と異なるようですが、いつの日かクリスマスを山口でお祝いしてください。今日の殉教者聖ステファノについて、使徒言行録6章1節から8章1節まで詳細に記述されています。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(7章59節~60節)彼はキリスト教初の殉教者と言われています。ある方は最初の殉教者は幼子殉教者だと言われますが、その時まだキリスト教ではなかったですね。従ってキリスト教(イエスの復活後)の最初の殉教者と言えば、ステファノになるでしょう。ともあれこれほど献身的に使徒や弟子たちのお世話をし、12使徒を支え、身を粉にして奉仕したステファノが、反対者から憎まれ、濡れ衣を着せられ、ボロボロにされた挙げ句の果て石打ちの刑に処せられた。しかもその中には、後に使徒になるサウロ(聖パウロ)もいたことです。歴史上の出来事だとは言え、いつもこの聖書箇所の記述をどのような気持ちで読めばいいのか、キリスト信者の一人として複雑な思いになります。
当時の使徒たちの仕事の補佐をするために選ばれた7人の一人ステファノ。大勢の弟子たちの中でも特に「信仰と霊に満ちた人」で彼の言動は素晴らしいと皆に評価されていた弟子ステファノ。その彼が、サウロも加わった加害者集団に殺害されたのです。勿論、ステファノは真っ直ぐに天に召されたでしょう。名前の通り"殉教の冠"を主によってもたらされたのです。でも何とも言えない悲惨な出来事です。これが史実の社会ですと認めざるを得ないでしょう。その未熟な社会は、現代も似ているところがあるように思います。今日、あなたは聖ステファノ殉教者を思うとき、いつの時代も変わらない社会の現実に何を思われますか。
ヨハネは、イエス・キリストの12使徒の1人であり、使徒ヤコブの弟で兄と一緒にガリラヤ湖畔で兄ヤコブと漁の網を繕っていた時にイエスに声を掛けられ、イエスに魅了され父親と舟すべてを捨てて従った人である。ヨハネも兄同様気性が荒く"雷の子"とイエスから"アダ名"された。しかし、兄ヤコブも弟ヨハネもイエスから特別に愛された弟子であり、12弟子の中で最年少だったからか、一番愛された弟子と言われている。それを顕しているのは、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の絵の中でイエスのすぐ側に座るヨハネの姿から窺える。またイエスの十字架刑の際には、その十字架のもとに立っていた時、イエスから母マリアを自分の母として世話するように委ねられた弟子でもある。事実、彼の福音書の中で自身が実感していたことを「イエスが愛された弟子」と記述している事からも自明である。
彼の福音書は、他の3つの福音書と比べると、その内容から他の福音書と異なり神秘性が深いのを感じさせる。またヨハネは、いつもイエスの傍で見聞きしたことを、ヨハネ独自の解釈から描かれていると伝えられている。
イエスの復活後、ヨハネは、エルサレム教会の指導者としてペトロとともに活躍したと伝えられる。またパウロの殉教後には、エフェソの司教として小アジア教会を司牧したとも伝えられる。しかし、彼もローマ皇帝ドミチアヌスのキリスト教迫害で捕らえられ、パトモス島に流刑された。そこでヨハネは、様々な幻を見て、それらをまとめ記したのが「ヨハネの黙示録」である。
流刑が解き放たれたのち、エフェソに戻りそこで「ヨハネ福音書」と3つの「ヨハネの手紙」を著したと伝えられている。これら彼の記した著は、紀元100年頃とされている。そこからヨハネは90歳頃まで長生きしたのちに、殉教されたと伝えられている。
今日の幼子殉教者の記述は、マタイ福音書2章にあります。イエスが誕生した時代、ヘロデ王がイスラエルを統治していました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来他のです」これを聞いたヘロデ王は、自分の他に王位を狙う者が現われたと思い、その者の殺害を計画しました。そしてヘロデ王は、祭司長たちや律法学者たちを集め、ベツレヘムに現われると分かると、「ユダヤの王」を自分も拝みたいので見つけたら知らせるようにと言って博士たちを送り出しました。
ところが占星術の学者たちは、幼子イエスを礼拝した後、ヘロデにイエスを見つけた場所を知らせることになっていましたが、ヘロデ王の元に戻らないようにと天使に命じられたので、そのまま東方に帰りました。その後、ヨセフの夢の中にも天使が現れ、マリアと幼子イエスを連れてエジプトに逃れるようにとのお告げを受け、聖家族はエジプトに向けて出発しました。裏切られたと知ったヘロデ王は怒り、幼子イエスの命を奪うために、ベツレヘムに住んでいた二歳以下の男の子を皆殺害したのです。ヘロデ王は自分の名誉、地位、権力だけの為、かけがえのない幼い尊い命を奪ったのです。殺された幼子たちは、カトリック教会及び東方正教会において「救いの初穂」、最初の殉教聖人として2世紀以降、その殉教を記念しています。現在、カトリック教会では12月28日、東方正教会では12月29日を幼子殉教者の祝日として特別に祈りを捧げています。大人のエゴ・争いが、幼い子供たちの尊い命を奪うことのない世界平和の為に心を合わせて祈りましょう。「戦争は人間の仕業です」(ヨハネ・パウロIIの言葉)。
聖家族の祝日は、主の降誕の次の日曜日に祝います(ただし、主の降誕が日曜日に当たる年は12月30日に祝います)。教会でいう聖家族とは何であるのか。唯、家族全員キリスト者だから、例え現実離れした幻の家族であっても聖家族と呼んでいませんか。つまり、家庭崩壊している家族、親子関係のない家族、相互理解不可能な家族、互いに苦悩している家族、これら現実問題を抱える家族に対して、本当の家族の喜びが何であるのか。その事を伝える為に、幼子イエスをヨセフとマリアに委ねた家族の真の姿を祝う日なのです。ヨセフを大黒柱とした家族は、決して豊かな家庭ではありません。むしろ貧しい日雇い賃金だけで暮らす家庭です。また親子喧嘩があったとは、聖書に記されていませんが、なかったとは言えません。ヨセフもマリアもイエスが成長していくほどに、いくら神の子とは言え、理解できないことで苦しまれたことも沢山あったでしょう。そんなある日、父ヨセフが亡くなり悲しみを背負いながら、経済的にも困窮した日々もあったでしょう。このように普通の、否、それ以下の厳しい家庭生活を暗に聖書の空白期間は、そのことを含蓄させているのではないでしょうか。神の望みにしたがってイエスを育てたヨセフとマリアは、イエスを通して神の救いの業の実現を信じることだったのです。神は一人ひとりの子どもを通して救いのわざを実現しようとなさっています。一人ひとりの子どもに救いの使命を託し、その子をそれぞれの親に委ねられます。だから、親が神の望みにしたがって子どもを育てるとき、同時に救いの業が実現しているのです。神の救いにかかわることですから、人間的にはうまく行かないこともあるでしょうし、理解できないこともあるでしょう。しかし、神が必ず我が子を通して、救いの業を実現してくださることを信じながら、育てていくこと。マリアのように......。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう!」(ルカ1・45)と。あなたは聖家族から何を気づかされますか。