
そのとき、ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

今日の福音の中に出てくる「わたしにつまずかない人は幸いである」というイエスの言葉がとても印象に残りました。そういえば、イエスがご自分の体を食べ、血を飲みなさいと語られたときにも、多くの人はイエスにつまずきました(ヨハネ6・61)。今日の福音の中でも、イエスはご自分のことを、預言者でもない自分が神の子として不自由な体を癒し、福音を宣べ伝えている、とヨハネの弟子に告げています。
ヨハネも含めて、その当時のユダヤ人にとって、神が自分たちに直接語り掛けるなどということは思いもよらないことであり、イエスの行動は律法に背く極めて不適切な行いだと受けとめられていたはずです。冒頭の印象的な言葉こそ、人々の様子を目にしておられたイエスの正直な感想だったはずです。
ヨハネは洗礼のときにイエスと出会っています。そして、イエスが聖霊で洗礼を授けられることを預言していました。さらに、ヨハネは自分の後に来られる方は天の国に入る者と入らない者とを峻別される方だと人々に教えていました。ヨハネが弟子をイエスのもとに送って、「ほかの方を待たなければなりませんか」、とイエスに尋ねさせたのは、牢の中で聞くイエスの行いが自分の考えていたイエスと大きく違っていたからでしょう。
確かにイエスはヨハネが考えていたような審判は下されませんでした。イエスがヨハネのことを、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われたのは、ヨハネがイエスの姿をありのままに受け入れることができなかったからでしょう。
偉大な洗礼者ヨハネでさえ受け入れるのが難しかったイエスのありのままの姿を素直に受け入れることができるよう祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ35・1-6a、10)・(第二朗読:ヤコブ5・7-10)