2021年05月30日の聖書の言葉

三位一体の主日「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)

 さて今日のお祝いの福音は、マタイ福音書の最後の結びが読まれています。イエスは弟子たちに向かって語られます。「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と記述されているように、この場に及んでまだ疑う人がいたのです。にもかかわらず、イエスは、彼らに近づいて「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と。

 この言葉は弟子たちを通して、洗礼の恵みに授かったすべての人を指して話されていると思います。そして何をするのか。それは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。それは簡単なことではないでしょう。しかし、イエスが弟子たちに教えた事はなんであったのか。それを思い起こすことによって、どうすれば良いのかが、判るようになるでしょう。

 そのためにイエスは生前、何時も弟子たちと共に過ごされた。共に過ごしていた間、弟子たちは何時もイエスから、何かを教わっていたはずです。その教え、その全てを守るように教えなさいと言うことなのです。その究極の教えは、イエスが掟と称した言葉「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39)そして、イエスの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と疑う者に対しても、すべての人々へ安心立命、これこそ「あなた方のこれから歩む人生の中で、どんなことが起こっても信仰を持って安心して与えられた道を歩みなさい」と教えて下さっているのではないでしょうか。

 これが父の愛であり、これを実践されたのが、イエス・キリストであって、それを継続する力を注いで下さるのが聖霊なのです。キリスト者はいつも祈りの前後に「父と子と聖霊によって」と口ずさみながら額に十字を切ります。その時、同時に「私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」と約束してくださったイエスの言葉を思い起こし、安心して生かさせて戴きましょう。


2021年05月23日の聖書の言葉

聖霊降臨の主日 真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハネ 16:13)

 聖霊とは、聖書の中で霊そのものとして存在していません。聖書の中で霊(プネウマ・新訳)は、風、息、呼吸のような空気の移動(ル-アッハ・旧約)として表現されています。そこから霊とは、実体ではなく、むしろ実体に与える力を表現する言葉と言われます(聖書学者雨宮師)。

                  

 今日の福音は、イエスが最後の晩餐で弟子たちに語られた「告別説教」と呼ばれる箇所です。特に今日の聖書の箇所では「自分は去っていくが、その代わりに弁護者 (助け人であり慰め主となる者)を送ります。その弁護者とは、父の元から出る真理の霊で聖霊です」と。それによって弟子たちは、真理を全て悟ることになると言われます。

どうしてイエスは、このようなことを話されたのでしょうか。イエスはこれから先、弟子たちに起こる過酷な出来事を事前に察知していたからです。過酷な出来事、それは弟子たちが迫害される時が必ず来ること、その時に「弟子たちをつまずかせないためです」と断言されます。また聖霊は、イエスが啓示された神の真髄、イエスに起こった色々な出来事の意味を深く悟らせて下さるとも言われます。

 生前、イエスは色々な場で色んなことを語って下さった真実の意味、それらを理解するには、言葉の奥に隠された意味を、祈りの中で、出会いの中で、体験をすることが大切なのです。つまり、イエスが折に触れ語られたことは、この事だと気づかされる事によって、イエスの意図する本当の意味を理解できるからでしょう。聖霊はイエスの語りの意図を復唱する事なく、一人ひとりが、その真意を理解するように、それぞれのレベルに応じて、イエスの大切な言葉を気づかせ悟らせるのです。弟子たちの悟りは、まさに聖霊によるお告げの悟りです。

 現代のあなたの抱える問題はなんですか。その問題に対してどのように解決し、残された人生をどのように生かさせて戴くか、心を開いて主に全てを委ね、聖霊の光を注いで戴きましょう。必ず、あなたの今日までの体験を通して、何かに気づかされ、そこから何かヒントが得られるかもしれませんね。


2021年05月16日の聖書の言葉

主の昇天 信じる者には次のようなしるしが伴う(マルコ 16:17)

 今日は主の昇天の祝日です。今日の福音の終わりにイエス様が弟子たちにお話した後「天に上げられ、神の右の座に着かれた」と天に昇られたことを記しています。天に上げられるとは、どういうことなのでしょうか。それは「神の右の座に着くことを表現するのに相応しい為であって、物理的な現象を強調することではないと言われます。また一人の人間が、受難と死を乗り越えて神の右に着かれたと言うことだけでなく、元々故郷である天に帰ったと言うことでもあるのです」(聖書学者雨宮師)。この父の右の座である天への帰還日をお祝いするのが"主の昇天"なのです。

 さて今日のメッセージは、第一朗読で言われた「地の果てまで私の証人となる」と弟子に告げています。そして「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と告げられました。それはイエスと共に歩み、最後イエスの復活を確証した弟子たちに告げたのです。さらに弟子たちに理解できることを期待し「信じる者には、次のしるしが伴う」と言われました。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。

 このしるしをどのように理解すれば良いのか。キリストの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨の出来事は、何を私たちに問い掛けているのか。弟子たちの面前で起こった出来事、そしてそれらが何を指しているのか。その出来事の意味する事は何であるか。それらを区別して考えていくと、イエスがそれら出来事の中に含蓄させた大切なことを気づかないだろうか。

 現代社会は常に結果だけが求められ、それに至るプロセスをないがしろにされます。それは言い換えれば、出来事だけが先行し、それを読み取る力に欠けていると言う事かもしれません。現代において、プロセス抜きの見た目・外観だけで評価される傾向が強くなると、誰もプロセスの中で見られる"しるし"を知ることなく、全てが"当たり前"の出来事だけで終わってしまいます。勿論、結果も大切な部分ですが、それ以上に大切なことは、結果の中にあるのではなく、プロセスの中で生じる小さな出来事の中に観る"しるし"なのです。

 それらの"しるし"は、何を意味しているのか、何を伝えようとしているのか、それは人によって"しるし"も異なるし、内容も異なるでしょう。何故ならそれは神が、その人に一番相応しい時、最高のものを、最高の形で気づかせるからです。あなたへの"しるし"は、何でしょうか。


2021年05月09日の聖書の言葉

復活節第六主日「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

 今日の福音は、まさにイエスが生涯、弟子たちに、すべての人に日々の生活を通して証しされたことを言葉で証言されます。それはまた神のみ旨であり「わたしの掟である」と言われます。なぜなら神は愛だからです。さらに最後にイエスがすべての人にご自身の命を捧げられたように、友のため、つまり人のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はないと言われます。

 確かに、イエスはわたしたち人類のために、ご自身の命を捧げてくださいました。だからと言って、私たちも自分の命を捧げられるだろうか。まして誰も知らない人のために、例え自分の身内であったとしても、あなたは捧げることができますか。もし問われた場合、正直、"出来ます"と答える方は、いるだろうか。しかし、イエスは出来る人なら、その人はわたしの"友である"と言います。そこに焦点を絞ると、ある事に気づかされます。

 当時、弟子たちは、イエスと共にいる間、何も出来なかった。しかし、イエスにとって最高の弟子であり、最高の友であった。出来なかったその弟子たちを「友」とも呼ばれています。ということはイエスの言う「自分の命」とは何を指して言われるのか。当然のこととして、弟子たちが自分の命を捧げられないことを十分知っておられたはずです。にもかかわらず、そのように話されたのは、人や物事に接する時、相手に身勝手な思い込みを抱くことなく、また相手を外観で、肩書きで判断しないこと。同時に、自分も相手も「ありのまま」を見て、ありのままをさらけ出すことが大切であることを言われているのでしょう。

 その究極的なイエスの愛で解釈をするならば、すぐに命を捨てることは出来なくても、私・イエスにつながっていれば、それに値する相応しい愛徳を実践する「友」になるだろうと確信して「わたしがあなたがたを選びました」と語られたのだと思います。そして最後に、イエスの厳しい言葉を和ませる「わたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるように」とも付け加えられています。

 だから「互いに愛し合いなさい」と言われます。確かに、現代社会において今よりも一層世界中の人々が「互いに愛し合う」ならば、真に平和な社会、世界になる大きな実を結ぶことになるでしょう。このイエスの言葉こそ神の人類に対する願いではないでしょうか。


2021年05月02日の聖書の言葉

復活節第五主日「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ 15:14)

 今日の福音箇所で気になる言葉が「つながる」です。1節から8節の間に8回も繰り返して「つながる」の言葉が使われます。つまり、「つながる」ことは"とても大切なこと"なのですよと言うことでしょう。

 「つながる」、一体、誰と、どこで、どうして、いつ、どのように、という昔習った4W1Hで考えてみます。その前にまず、聖書で「つながる」とはどのような意味を持っているのか。聖書学者・雨宮師によるとヨハネはこの言葉を好んで使っていると言われます。そしてヨハネは「自分の本来のあり方を見出した処に留まる」という意味で使っていると言われます。

 そこで4W1Hを考えてみますと、最初に誰と「つながる」か、それは自明ですね。イエス・キリストです。次にどこで?その鍵を握っているのが、第一朗読の中でそのことを表すサウロの姿です。「自分の本来のあり方を見出した場所」にとどまるサウロです。つまり、主と出会った場所になります。第三のどうしては、「生きる意義を与える根拠につながっていなければ、豊かに身を結ぶこともできないで、朽ち果てるからです。」第四の何時は「いつも、どんな時でも」です。最後にどのようには「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合う」こと。

 そうすることによってあなたが「望むものをなんでも願いなさい、その願いは叶えられる」と約束してくれるからです。イエスは、「私につながっていなさい」と弟子たちを通して私たちにもその約束をしてくださるのです。あなたは何時も主と「つながって」いますか。ご自身の利益につなげてはいませんか。