今日は「主の昇天」の主日です。ご復活後の40日目に、この昇天の祭日を祝います。ところがこの祭日は、必ずしも特別な休みの日として守るべき祭日でないとのことで、キリスト教国でない日本では、「主の昇天」の祭日を復活節第7主日にお祝いしています。
今日のイエスの主の昇天の出来事は、今日までのイエスの受難、死、復活、そして昇天、そして聖霊降臨へと続く、まさに焦点なのです。つまり、弟子たちとイエスの関係が一つの転機を迎えて、新しい聖霊の派遣というプレリュードだからです。それはまたイエスの残した共同体(教会)活動の黎明を告げているのです。
この昇天の出来事の意味は何か。言うまでもなくキリストの生涯の完成であるのと、"教会活動の始まり"のしるしでもあると言われています。弟子たちは、イエスから受けた命令に対して使徒活動を実践することで、後にイエスの教会が構築されていくその始まりなのです。それはまた生前のイエス・キリストから、復活後の聖霊降臨へと継承されていくのです。
聖パウロは、この出来事は非常に重要であることが、彼の書簡からも伺えます。その理由は、この昇天の出来事により、弟子たちも、そして洗礼の恵みに預かった者も、イエスから受け継いだ使命、その使命がキリストの使命と結ばれているからです。イエスの昇天は、聖霊による普遍の根源であり、それは世界のあらゆるところに普遍的に存在することによって、人類全てが、神の子に対する信仰と理解において一つのものとなり、成熟した人間になり、イエス・キリストの望まれる人に成長するからです。とパウロは書簡で伝えています。
聖霊降臨Pentecostesペンテコステ(ラ)は、イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた12人の使徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事のこと、およびその出来事を記念するキリスト教の祝祭日です。宗派によってそれぞれ言い方は異なり、聖霊降臨、五旬節、五旬祭、7週の祭りとも言われます。
聖霊降臨の日を、新約聖書の中で「五旬祭(ペンテコステ)」(使徒言行録 20:16)と記しています。旧約聖書では「初物の日7週祭」(出エ 34:22、民28:26)とも呼ばれ、もともとは収穫祭でしたが、エジプト脱出つまり過越から50日目に結ばれたシナイ契約を記念する日となったと言われます。キリストの復活を祝う50日目に復活節の終宴として、聖霊降臨を祝います。
主の昇天を見守った弟子たち、彼らが主の復活の証人としてその使命に派遣される為には、聖霊を受ける時間が必要でした。弟子たちは聖霊の息吹により、神のはかりしれないご計画を悟り、それはやがて確信へと移ります。この確信こそイエスが望まれた教会誕生の源であり、福音宣教の原動力になるものです。したがって、福音宣教する者は、自己の力に頼ることではなく、福音宣教をすべての民にのべ伝えるためには、どうしても聖霊の力が必要となるでしょう。
教会では、聖霊降臨を毎年記念することで、一人ひとりが聖霊の賜物に預かっていることを意識します。そして、一人ひとりは生きとし生けるものの教会との一致の根源に立ち返り、この日、真に新たにされることに気づく時なのです。聖霊の働きによって、霊の実が見える教会共同体として成長しているか、そうあるべき姿を新たに求められている日でもあリます。聖パウロは、「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラ5:16)と言い「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです」(ガラ5:17)と。そして「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5:22-23)と言っています。
「三位一体」の言葉を一般の方が、使われる時「ちょっと本来の意味と異なっている」と思います。キリスト教の教えでは「本質(実体)として唯一である神が、父と子と聖霊という三つの区別された位格(自立存在、ペルソナ)である。それは万物を超越する神は自らを自由に人間に譲与する(神の自己譲与)。即ち、神である御子が父なる神によって遣わされて人間となり、神の愛を掲示し、神と人類を一致させる。・・・ 」と言われます。(P.ネメシェギ師)。
教会の"三位一体"説は、難しい教えの最高峰と言われています。聖霊降臨の主日の翌月曜日から教会暦では「年間」に入りました。年間に入った最初の主日が、三位一体の主日としたその理由は、次のことからでした。
教会は、イエスがご自身の生涯をかけて、神の使命を全うされた救いの業を思い起こし"父、子、聖霊"この三位が人類の救いを実現されたことを、もう一度味わい直すこと。なぜなら、三位一体の神秘は、人知をはるかに超えるものであり、決して解析し理解するものではないからです。そのことを教えてくださったのが、イエス・キリストでした。教会はイエスが教えてくださった神をできるだけ忠実に表そうとして、歴史の中で「三位一体の神」というキリスト教的な神理解が明確になっていきました。イエス・キリストは、私たちに三位一体の神秘を啓示し、さらに私たちを三位一体の中に招き、導いてくださるのです。
8世紀半ば頃から教会は「三位一体」のミサを捧げて来ました。また教皇ヨハネ22世は、1334年に三位一体の祝日をカトリック全世界の祝日と制定されました。そこからカトリック教会では、この三位一体の祝日を大切に伝えています。キリスト信者の人々にとって「父・子・聖霊」の名によって洗礼を受けたこと、そして毎日額に十字を切る度「三位一体」のうちに招かれていることに気づかせて戴きましょう。
「キリストの聖体」の祭日は、イエスが聖体の秘跡を制定した最後の晩餐で話された言葉「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と繋がっていることから、通常「三位一体の主日」の週の木曜日に祝っています。しかし、日本のようにキリスト信者の少ない国々では、平日のミサに信徒の方々を参集させるのが難しいため、木曜日ではなく三位一体の主日の次の日曜日に祝うようにしています。
聖体とは、カトリック教会をはじめキリスト教諸教会において、ミサあるいは聖体礼拝式で礼拝し、拝領するために聖別されたパン(ホスチア)を言います。儀式の中でパンとぶどう酒が用いられ、パンはキリストの体「これは・・わたしの体である」(ルカ22:19)として、ぶどう酒はキリスト体から流れ出た血「この杯は・・わたしの血・・」(ルカ22:20)として、キリストの実体に変化することを聖変化という言葉で表現し、その聖変化する式をミサ・聖体祭儀・エウカリスチアとも言います。これはイエス・キリストの奉献の感謝に満ちた記念祭だからです。
教会は初代教会から現代に至るまで聖変化のことを「聖体の秘跡」と称し、この秘跡に対して、いつも最高の敬畏をしてきました。特にカトリック教会では、ミサ・聖体祭儀・エウカリスチアの中で最も大切な祭儀としています。したがって、イエス・キリストの生涯の出来事、誕生から昇天までを祝う教会は、イエス・キリストの残してくれた大切な"しるし"である神の恵み、愛の結晶を「キリストの聖体」の祭日として祝うのです。初代教会から「パンを裂く」記念祭は、キリスト信者にとって、イエス・キリストとの出会い、交わり、命の糧を授かる信仰の中心として大切な目に見える"しるし"なのです。
キリストの聖体の祭日が決められたのは、キリスト信者が熱心に聖体への信心を祈願していた13世紀頃と言われています。1264年、当時の教皇ウルバノ4世は教令を発布し、この祭日を全てのローマ教会で祝うようにしたそうです。
キリストの聖体の祭日は、わたしたちの教会がキリストの聖体と共に、神に向かって歩み続けているかどうか。わたしたち一人ひとりの心の姿勢を見つめ直す機会の日でもあるのです。
洗礼者聖ヨハネの誕生の記述は、ルカ福音書第1章に詳細に記されています。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」人(ルカ1:16-17)として、神が送られたと。そして彼の誕生の次第は次のようでした。エルサレム神殿の祭司ザカリアと子どもに恵まれなかった不妊の女と呼ばれたエリザベトは、すでに年老いていた。しかしあるとき、ザカリアは天使から男の子を授かると告げられました。当然、彼らはすでに年をとっていたことから、そのお告げを信じられませんでした。信じなかったザカリアに天使は、そのしるしとしてザカリアの口を利けなくされました。
ところがその後、エリザベトは身ごもり男の子を産みました。そして、ザカリアは天使が告げた産まれる子の名前をヨハネと名付けると、たちまちザカリアの口が利けるようになりました。誕生したヨハネは、老夫婦の愛に包まれ成長していきました。その後、彼は荒れ野で生活を始めました。ヨハネはらくだの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて荒野に行き、いなごと野蜜を食べて暮らしながら、イエスの到来に備え罪の許しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。ヨハネの活動は「罪の許しに至る回心の洗礼」と称され、当時大勢の人々は、ヨハネに罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けました。その活動を耳にしたナザレのイエスも、ヨハネのもとに赴き彼から洗礼を受けました。その後ヨハネは、ヘロデ王の悪事を戒めたことが原因で捕えられ、処刑されました。彼は、「イエスを栄えさせ、自分は姿を消すもの」としての生涯を終えたのでした。
洗礼者ヨハネのイエスに対する姿勢は、まさに"神の僕"として実直であったことを知る箇所があります。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに・・・そこでヨハネはイエスの言われる通りにした」(マタイ3:14―15)。神のご計画どおりに洗礼者ヨハネは、誕生し、育成され、活動された。そしてイエス・キリストの先駆者として生涯「回心のための洗礼」を大勢の人々に授けました。ところが領主ヘロデに対して彼のとった行為、その罪の赦しの回心を迫りました。これが契機となり洗礼者ヨハネは、ヘロデの権威の悪用の犠牲となり生涯を終えました。聖書の中に観る洗礼者ヨハネの姿は、エリザベトの胎に宿った時から、神の御計画通りにこの世での使命を果たされた行動力のある直向きな忍耐の人であったことが窺えます。
イエスのみ心の祭日は、本来「キリストの聖体」の祭日に続く金曜日に祝います。"イエスのみ心"への信心は、17世紀にフランスで聖マルガリタ・マリア・アラコックが、神から啓示を受けたことから始まりました。その噂は瞬く間にフランス中に拡散しました。その後1856年、教皇ピオ9世はローマ教会全体で"イエスのみ心"を祝うように制定しました。また、この日を契機にフランスや他のキリスト教国では、"聖心"(みこころ)名を付けた修道会が沢山誕生しました。この祭日を祝う目的は、神様の愛をイエスの愛と献身を通して与える"イエスのみ心"に敬い讃えることなのです。
キリストの聖体とみ心の祝日を例年6月にお祝いしていたことから、6月は「イエスのみ心の月」として、自然に定められたと伝えられます。教皇ベネディクト16世は、書簡の中(2006年5月15日)で次のように記しています。「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」と。また教皇フランシスコも「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい』(マタイ11:28-29)。・・・『一人の兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと、そこから血と水とが流れ出ました』(ヨハネ19:34)。ヨハネは、偶然的に見えるこのしるしのうちに、預言の成就を認めました。十字架上の生贄の小羊であるイエスのみ心から、人類全体に対する"ゆるしといのち"があふれ出るのです。しかし、イエスのあわれみは単なる感情ではありません。それは、いのちを与え、人間をよみがえらせる力なのです」と言われました。
み心の信心は、教会において大切な泉であり、キリスト教の中心的信心であると言っても過言ではありません。この"イエスのみ心"の限りない愛に対して、私たちの出来得る可能な限りの愛で応える信心の目的を日々の生活の中で実践して、このみ心の月を大切に過ごしましょう。
聖ペトロと聖パウロは、教会の中で特別な地位を占めています。この二人の聖人なくしてキリストを証し、キリストの教会を建て、キリスト教を発展させることには、ならなかったでしょう。またこの二人の聖人から神の「救いの歴史」そのものを確認することもできます。すべての教会の中でペトロとパウロ二人の聖人抜きには、何も語れないほど特別な聖人なのです。
さてかつて二人の聖人のお祝いは、2月22日に行われていたそうです。その記録がローマにある地下の墓地・カタコンブ(聖セバスチアノ)に落書きで残されているとのことです。
聖ペトロ:
ペトロは、ベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンデレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたと伝えられています。彼の名は、もとシモンでした。ところがある日イエスは、シモンにペトロ「岩」という名前をつけました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:18-19)と約束しました。復活したイエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言い、その後ペトロは、ローマに教会を構築しました。67年、皇帝ネロのキリスト教迫害が始まると信者たちの導きでローマから去ろうとしましたが、自分の使命を悟り、ローマに戻りました。しかし、すぐに捉えられ、逆さ十字架につるされて殉教しました。その後、ペトロが殉教した場所にサン・ピエトロ大聖堂が建てられペトロは、ローマの司教として33年間、殉教まで活躍したと伝えられています。その結果、ローマの司教は全世界の教会の頭・教皇としてペトロの使命を受け継いでいます。したがって現在でも教皇職は、ペトロの座とも呼ばれているのです。
聖パウロ:
パウロはイエスの時代、小アジアのタルソス生まれで、名をサウロと呼ばれていました。エルサレムで学び、当時有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派の人でした。サウロは、神を冒涜するイエスの教えは邪教であるとして、徹底的にキリスト教徒を迫害していました。ある日、キリスト教徒を捕らえるためダマスコに行く途中、突然「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声を聞き、地に倒れた(使徒言行録9:4)。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めたのです。ところが、サウロの回心を信じないイエスの弟子たちからは、無視され、冷ややかな目で見られていたのです。その環境は、サウロにとって弟子たちから孤立した苦しい日々でした。そのような状況下で、サウロの世話をしていたのが、バルナバであり、アンティオキアでは共に宣教して、そこに初めて教会を建てることになります。その頃からサウロは、パウロと呼ばれるようになったそうです。
パウロは宣教のため、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネにまで福音を宣べ伝えました。使徒言行録からも自明のように彼らは数えられない程の困難に遭いながらも、苦難の中で確証した信仰によって、キリストの愛を伝えるために全力を注いでいったのです。パウロもまたペトロの殉教と同じ頃、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕縛され殉教しています。宣教の為に三回の旅をしたパウロは、イスラエル以外の地域の人々へも宣教することでした。そのことでパウロは「異邦人の使徒」とも呼ばれているのです。第二次大戦後、我が国にきた大勢の宣教師たちにとって、聖パウロは、まさに彼らの先駆者であり、模範とする聖人であったと聞かされています。