ローマは日本の開国の兆しを睨み、再宣教の計画をしていた。1846年、再宣教はパリ外国宣教会に全てを委ねた。1854年、アメリカのペリー総督が浦賀での条約で日本の開国に成功。その後1858年、日仏修好通商条約が結ばれると、すでに香港から那覇に来ていたパリ外国宣教会のジラル神父が、日本布教長に任命された。そして布教長ジラル神父とその一行が入国した。時を同じくして、ジラル神父の抜けた那覇に送られてきたのが、若い宣教師・プティジャン神父であった。しかし日本へ入国した宣教師たちは、日本人に宣教することを禁じられていた。彼らは、特別指定された地域・居留地(函館、築地、横浜、大阪、神戸、長崎)に住む外国人にのみ布教することを許された。ところが宣教師たちは、日本政府の網の目を潜りながら密かに日本人に近づいたらしい。その頃、プティジャン神父は那覇で日本語の勉強に励んでいた。
その当時、信仰を守り続けていた長崎のキリシタンたちは、先祖の信仰を守るため密かに暮らしていた。長崎の中心から少し離れた三ッ山(現在、長崎純心大学の所在する地域)の山麓に潜んでいたキリシタンたちは、山に登って長崎湾を見下ろし、先祖が教えた歌『沖きに見ゆるはパパの船よ、丸にやの字の帆が見える』とその歌の通り必ず実現する日の到来を信じて歌っていたらしい。
1862年10月8日、教皇ピオ九世は、日本26聖人の列聖式を行った。この年、ジラル神父は、横浜の南山手に最初の天主堂を献堂した。しかし、横浜とその周辺では、キリシタンを誰一人発見することはなかった。それを確認すると1863年、フュレ神父は、長崎に行き大浦にもう一つの天主堂を建設し始めた。ところがフュレ神父は病いにかかり、そこで彼の後任として那覇にいたプティジャン神父が、1864年長崎へ派遣された。同年12月、26聖人に捧げられた天主堂は、大浦に完成。その美しい西洋建築の天主堂は、当時長崎の人々を魅了した。完成後3ヶ月が経とうとする頃、1865年3月17日、幾人かの村人たちが天主堂を、誰にも気づかれないよう密かに訪れた。その中の一人でイザベリナ杉本ゆりと名乗る女性が、プティジャン神父に近づき、囁くような小声で尋ねた。
『サンタ・マリアさまのご像はどこ?』プティジャン神父は驚きと喜びのあまり、彼らを祭壇の方へ案内した。『私たちは、あなた様と同じ心を持つものです。』この村人たちは200年以上もの間、キリスト教に対する迫害を受けながらも、真に厚い信仰で耐え忍び、来る日も来る日もあの歌を歌い続けて"希望"の糸を繋いできた子孫たちであった。その篤き信仰は、今も長崎の信徒の方々の心の中に深く刻まれ、代々引き継がれている。
教会の中でマリア様に次いで大切にされる聖ヨセフ。その証として、聖人の祝日が日曜日や聖週間と重なる場合、別の日に移動されお祝いしている。ヨセフについて聖書の中では、イエスが12歳の時に起った神殿での出来事を最後に記されていない。聖母マリアの夫、イエス・キリストの養父であるヨセフは、ユダヤの王ダビデ家の子孫であった。ヨセフは、聖書の中で観られるように目立つ人ではなく、地味で真摯な人であった。その彼が、結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表沙汰にすることなく、そっとマリアとの縁を切ろうとした。しかし、その夜、夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れ、マリアから生まれる幼な子にイエスと名付けるようにとヨセフに告げた。不安と心配に戸惑いながらもヨセフは、イエスの養父になる使命を担った。イエス生誕後、またヘロデ王が幼な子イエスを殺そうとしている計画を夢で知らされると、マリアとイエスを連れてエジプトに避難した。その後、ナザレに戻り日常の生活を続けた。ヨセフはマリアと共にイエスを神殿に奉献するためにエルサレムに行った。またイエスが12歳の時、エルサレムからの帰路でイエスを見失ったときは、マリアと共に3日間の道のりを探し歩いて神殿まで戻った。彼の行動を聖書から観ると、真に家族思い、否、イエス思い・神から託された子を常に大切に優しく見守り育んでいたことが窺える。またヨセフは、ガリラヤのナザレで大工仕事を営みながら、一家の生計を担い、その傍ら息子イエスに働くことの大切さを、身をもって教えたことも推測される。
このようにヨセフは、神のみ言葉を生活の中で生きることの大切さを語るのである。彼は息子イエスが、おそらくイエス20歳頃に亡くなったのではないかと伝えられている。
名付け親、そして養父、み言葉に生きる人としてのヨセフは、後世の教会に大きな影響を与えた偉大な聖人である。その後の多くの聖人となった人たちは、ヨセフの生き方に多大な影響を及ぼされたのである。
またヨセフは、幼いイエスとマリアを常に守ったことから、1870年教皇ピオ九世により、全教会の普遍的な守護の聖人であると宣言。祝日は3月19日。さらに1955年に教皇ピオ12世によって、5月1日を労働者聖ヨセフの日に制定。カトリック教会で聖ヨセフは「義人で忠実な人」と尊称されている。
受胎告知の日;天使ガブリエルは、乙女マリアに神の子イエス・キリストがマリアから生まれることを告げた。天使ガブリエルの言葉に、戸惑い心配したマリアであったが、それが神の働きであることを信じ、心に受けとめ「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と、神の母となる告知を受諾した。その後、マリアの親戚エリザベトを訪問した時に、神の母となる喜びと主への賛美を歌った。その聖母マリアの賛歌Magnificat(ラ)マニフィカト[我が魂、主を崇め]は、全世界の修道院、教会の中で現在に至るまで朝に夕に必ず祈りの中で歌われる。ちなみに東方教会では早課、西方教会では晩課に歌われる。お告げの場面は、全てのキリスト教信者にマリアの神に対する姿勢の模範として、自分の力に頼るのではなく、神への完全な従順を豊かに、そして美しく表現されている。この祝日は、七世紀から一般に祝うようになった。
また近年、この日を①世界が創造された日とする→「創造」 ②神の言葉が受肉した日とする→「救い主」 ③キリストが救いの為に十字架に架けられた日とする→「信者の生命」。これらからこの祝日を「新しい生命のはじまり」という意味も付け加えている。そして現在は、キリストの祝日としても祝う。
マリアの賛歌 Magnificat
わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる。
神は卑しいはしためを顧みられ、いつの代の人もわたしをしあわせな者と呼ぶ。
神はわたしに偉大なわざを行われた。
その名はとうとく、あわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。
神はその力を現わし、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、
見捨てられた人を高められる。
飢えに苦しむ人は、よいもので満たされ、おごり暮らす者はむなしくなって帰る。
神はいつくしみを忘れることなく、しもべイスラエルを助けられた。
わたしたちの祖先、アブラハムとその子孫に約束されたように。栄