2021年03月17日の教会の祝日

日本の信徒発見の聖母

 ローマは日本の開国の兆しを睨み、再宣教の計画をしていた。1846年、再宣教はパリ外国宣教会に全てを委ねた。1854年、アメリカのペリー総督が浦賀での条約で日本の開国に成功。その後1858年、日仏修好通商条約が結ばれると、すでに香港から那覇に来ていたパリ外国宣教会のジラル神父が、日本布教長に任命された。そして布教長ジラル神父とその一行が入国した。時を同じくして、ジラル神父の抜けた那覇に送られてきたのが、若い宣教師・プティジャン神父であった。しかし日本へ入国した宣教師たちは、日本人に宣教することを禁じられていた。彼らは、特別指定された地域・居留地(函館、築地、横浜、大阪、神戸、長崎)に住む外国人にのみ布教することを許された。ところが宣教師たちは、日本政府の網の目を潜りながら密かに日本人に近づいたらしい。その頃、プティジャン神父は那覇で日本語の勉強に励んでいた。

 その当時、信仰を守り続けていた長崎のキリシタンたちは、先祖の信仰を守るため密かに暮らしていた。長崎の中心から少し離れた三ッ山(現在、長崎純心大学の所在する地域)の山麓に潜んでいたキリシタンたちは、山に登って長崎湾を見下ろし、先祖が教えた歌『沖きに見ゆるはパパの船よ、丸にやの字の帆が見える』とその歌の通り必ず実現する日の到来を信じて歌っていたらしい。

 1862年10月8日、教皇ピオ九世は、日本26聖人の列聖式を行った。この年、ジラル神父は、横浜の南山手に最初の天主堂を献堂した。しかし、横浜とその周辺では、キリシタンを誰一人発見することはなかった。それを確認すると1863年、フュレ神父は、長崎に行き大浦にもう一つの天主堂を建設し始めた。ところがフュレ神父は病いにかかり、そこで彼の後任として那覇にいたプティジャン神父が、1864年長崎へ派遣された。同年12月、26聖人に捧げられた天主堂は、大浦に完成。その美しい西洋建築の天主堂は、当時長崎の人々を魅了した。完成後3ヶ月が経とうとする頃、1865年3月17日、幾人かの村人たちが天主堂を、誰にも気づかれないよう密かに訪れた。その中の一人でイザベリナ杉本ゆりと名乗る女性が、プティジャン神父に近づき、囁くような小声で尋ねた。

『サンタ・マリアさまのご像はどこ?』プティジャン神父は驚きと喜びのあまり、彼らを祭壇の方へ案内した。『私たちは、あなた様と同じ心を持つものです。』この村人たちは200年以上もの間、キリスト教に対する迫害を受けながらも、真に厚い信仰で耐え忍び、来る日も来る日もあの歌を歌い続けて"希望"の糸を繋いできた子孫たちであった。その篤き信仰は、今も長崎の信徒の方々の心の中に深く刻まれ、代々引き継がれている。