
そのとき、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

今日の福音は、現実世界での立場が弱く傷つきやすく、疲れ果てた人たちに宛てたイエスの言葉が綴られています。心の貧しい人々と聞いて、「心が狭く、思いやりがない人」を最初に思い浮かべてちょっとドキッとしたことがあります。実際には、心の貧しい人という言葉は貧しくて生気がなく頼りない様子の人を指しているそうです。
イエスが「幸いである」、と断言した人は皆、世間から見捨てられ弱い立場に立たされています。この福音書の箇所は、恵まれた環境にある人の側ではなく、世間に見捨てられて弱い立場に立たされている人の側につくという、イエスの宣言なのです。その人たちが「幸い」であるのは、神から大きな恵みを受けるのに相応しいからだと力強い言葉で告げておられます。
さらに、今日の福音書にはイエスのために弱い立場に追いやられるなら、むしろそれを喜べというイエスの言葉がでてきます。しかし、実際に身に覚えがないことで非難され蔑まれれば大変な苦痛を味わうことでしょう。その状況を喜ぶことは、私にはできそうもありません。そして、イエスの「喜べ」という言葉には理不尽にも程がある、と感じるでしょう。
イエスが、そんな私の気持ちをお分かりにならないはずはありません。だからこそ、イエスは、弱い立場の側に徹底して立つ、とまず宣言されるのでしょう。たとえ、あなたが弱い立場に立たされても私はあなたの側にいるというイエスの宣言は、私が弱い立場に立たされた時になって初めて心に響いてくるのかもしれません。
自分が弱いと感じれば感じるほど、イエスが近くに来てくださることに感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:ゼファニヤ2・3、3・12-13)・(第二朗読:1コリント1・26-31)