
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれており、救い主から罪を赦してもらうための清め、あるいは償いのための儀式だったそうです。ですから、罪を赦してもらうためには自分の償いが不十分だと感じると、何度も悔い改めの洗礼を受けに来る人がいたそうです。
ヨハネは、罪を赦すことができる御方が「悔い改めの洗礼」など受ける必要もない、と言って断ろうとしますが、イエスは「今はそうしてくれ。それが神様の御旨にかなうことだから」と答えておられます。福音書の中に出てくる「正しいこと」という言葉には、「神の御心に則っていること」という意味があるそうです。
ヨハネは「悔い改めよ、神の近づいた」と説きながら、自分が授けた洗礼によって清められた人々がイエス、すなわち救い主によって裁かれるのを待っていました。救い主の裁きの時には、罪が赦される人だけでなく罪が赦されない人も出てくるはずです。ところが、イエスは裁きを行わず、ユダヤの人たちと同じように悔い改めの洗礼を受けることを望まれたのです。
人となられたイエスは、裁くことなく、私たちと同じように悔い改め、苦しみ、死をも受け入れられました。それは、イエスに注がれた御父の愛をイエスが人として私たちに注ぐために必要なことだったのでしょう。
私たちが、イエスを通して受け取ることができる神の愛に感謝して、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ42・1-4、6-7)・(第二朗読:使徒言行録10・34-38)