2026年01月31日の聖書の言葉

2月1日 年間第4主日 マタイ5・1-12a

 そのとき、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音は、現実世界での立場が弱く傷つきやすく、疲れ果てた人たちに宛てたイエスの言葉が綴られています。心の貧しい人々と聞いて、「心が狭く、思いやりがない人」を最初に思い浮かべてちょっとドキッとしたことがあります。実際には、心の貧しい人という言葉は貧しくて生気がなく頼りない様子の人を指しているそうです。

 イエスが「幸いである」、と断言した人は皆、世間から見捨てられ弱い立場に立たされています。この福音書の箇所は、恵まれた環境にある人の側ではなく、世間に見捨てられて弱い立場に立たされている人の側につくという、イエスの宣言なのです。その人たちが「幸い」であるのは、神から大きな恵みを受けるのに相応しいからだと力強い言葉で告げておられます。

 さらに、今日の福音書にはイエスのために弱い立場に追いやられるなら、むしろそれを喜べというイエスの言葉がでてきます。しかし、実際に身に覚えがないことで非難され蔑まれれば大変な苦痛を味わうことでしょう。その状況を喜ぶことは、私にはできそうもありません。そして、イエスの「喜べ」という言葉には理不尽にも程がある、と感じるでしょう。

 イエスが、そんな私の気持ちをお分かりにならないはずはありません。だからこそ、イエスは、弱い立場の側に徹底して立つ、とまず宣言されるのでしょう。たとえ、あなたが弱い立場に立たされても私はあなたの側にいるというイエスの宣言は、私が弱い立場に立たされた時になって初めて心に響いてくるのかもしれません。

 自分が弱いと感じれば感じるほど、イエスが近くに来てくださることに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:ゼファニヤ2・3、3・12-13)・(第二朗読:1コリント1・26-31)


2026年01月24日の聖書の言葉

1月25日 年間第3主日(神のことばの主日) マタイ4・12-23

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

祈りへの招き

祈りへの招き

 イエスが語られた「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、洗礼者ヨハネが語っていた言葉「悔い改めよ。神の国は近づいた」(マタイ3・2)とよく似ています。実は、天の国も神の国も原文では同じ言葉です。ひとが神を直接名指しするのは恐れ多いとされるときは、「天の国」と訳されるようです。イエスは御父から遣わされた御子なので、「神の国」と語られるのは自然なことです。

 わたしたちは、「御心が天に行われる通り、地にもおこなわれますように」と祈ります。神の国は遠く離れたところにあるのではなく、わたしたち自身のところに神の御旨が伝わることで実現していく国なのです。

 また、「悔い改めよ」と訳されている言葉は「回心する」とか「神のもとに立ち返る」といった意味の言葉です。イエスは、すぐそばに来てくださっている神に向き合いなさい、と告げておられるのです。この呼びかけに応えて神と向き合えた瞬間、私たちはイエスの言葉を思い出します。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)

 回心して神に向き合うことができれば、イエスが私たちを神へと導いてくださいます。私たちのすぐそばまで来てくださっている神に向き合うことができるよう、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ8・23b~9・3)・(第二朗読:1コリント1・10-13、17)


2026年01月17日の聖書の言葉

1月18日 年間第2主日 ヨハネ1・29-34

 そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 ミサの中で、私たちがご聖体(イエス・キリストの御からだと御血)を拝領する前に歌う「平和の賛歌」の歌詞は、今日の福音書の中でヨハネがイエスを指して言った言葉、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」に由来しています。今の聖体拝領はパンとして小さなホスチア(※)を拝領しますが、初代教会のミサでは普通のパンを参加者が人数分に裂いていたので、聖体拝領はずいぶんと時間がかかったそうです。そこで、教皇セルギウス一世は聖体拝領の間には「平和の賛歌」を歌うように定めました。

 神の子羊、と聞いても私たちにはピンとこないかもしれせん。過越祭で子羊を屠る習わしがあるユダヤの人たちなら、子羊と聞けば人のために捧げられる犠牲の子羊を真っ先に思い起こすでしょう。もちろん、ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだときには、まさかイエスが私たちの罪をすべて贖ってくださる方だとは思わなかったでしょう。

 聖体拝領前にわたしたちが「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈ったのち、司祭は「教会に平和を願う祈り」を唱えます。その中には、確かに「わたしの平和をあなたがたに与える」というイエスの言葉があります。「平和の賛歌」を歌って、わたしたちが神の子羊とイエスに呼びかけるのは、私たちの平和がイエスの贖いを通して神から与えられたことを心に呼び起こすためでしょう。

 イエスの贖いによって神の平和が私たちに与えられたことを深く感謝して、祈りましょう。

 ※ホスチア:聖別用に用いられる円形の薄いパン、「聖体」となるパンのこと。

参考:(第一朗読:イザヤ49・3、5-6)・(第二朗読:1コリント1・1-3)


2026年01月10日の聖書の言葉

1月11日 主の洗礼 マタイ3・13-17

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

祈りへの招き

祈りへの招き

 ヨハネが授けていた洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれており、救い主から罪を赦してもらうための清め、あるいは償いのための儀式だったそうです。ですから、罪を赦してもらうためには自分の償いが不十分だと感じると、何度も悔い改めの洗礼を受けに来る人がいたそうです。

 ヨハネは、罪を赦すことができる御方が「悔い改めの洗礼」など受ける必要もない、と言って断ろうとしますが、イエスは「今はそうしてくれ。それが神様の御旨にかなうことだから」と答えておられます。福音書の中に出てくる「正しいこと」という言葉には、「神の御心に則っていること」という意味があるそうです。

 ヨハネは「悔い改めよ、神の近づいた」と説きながら、自分が授けた洗礼によって清められた人々がイエス、すなわち救い主によって裁かれるのを待っていました。救い主の裁きの時には、罪が赦される人だけでなく罪が赦されない人も出てくるはずです。ところが、イエスは裁きを行わず、ユダヤの人たちと同じように悔い改めの洗礼を受けることを望まれたのです。

 人となられたイエスは、裁くことなく、私たちと同じように悔い改め、苦しみ、死をも受け入れられました。それは、イエスに注がれた御父の愛をイエスが人として私たちに注ぐために必要なことだったのでしょう。

 私たちが、イエスを通して受け取ることができる神の愛に感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ42・1-4、6-7)・(第二朗読:使徒言行録10・34-38)


2026年01月03日の聖書の言葉

1月4日 主の公現 マタイ2・1-12

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

祈りへの招き

祈りへの招き

 今日の福音書朗読で一番印象に残ったのは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で星を見たので、拝みに来たのです」という箇所でした。

 ヘロデ王はユダヤがローマの属国であったときに、ユダヤの統治をローマから委託された王でした。ヘロデ王の在位が紀元前37年から紀元前4年という歴史の事実は、私たちがイエスがお生まれになった時期を知る手がかりになっています。ユダヤの民からは、ヘロデ王はローマに取り入って王だと思われていたはずで、ヘロデ王自身も同胞を信頼できなかったでしょう。実際、とても猜疑心が強い王だったとされています。

 さて、冒頭に挙げた一節は、占星術の学者たちが遠方から旅をしてきてヘロデ王に告げた言葉です。謁見したヘロデ王に向かって「自分たちとは無縁の国に生まれた赤子を拝むために遠方よりはるばる旅をしてきました。その方がユダヤの王だからです」と告げたのです。生後間もなく死んでしまう赤ん坊が多い当時にあって、王の子として生まれても王になるとは限りません。王として生まれてきた赤子に拝謁するため遠路を出掛けるなど前代未聞の話です。しかも、それを現時点でユダヤの王であるヘロデに向かって言うなんてあり得ない話です。

 あっ、そうか! この三人の占星術の学者たちの言葉は「とてつもなく大切な方が、この世に来てくださった」と告げている言葉なのです。

 私たちは、その大切な方に会うために遠方へ旅する必要などありません。大切な方はいつも私たちの近くにいて神への道を示してくださっています。イエスとの近しさに感謝して、祈りましょう。

参考:(第一朗読:イザヤ60・1-6)・(第二朗読:エフェソ3・2、3b、5-6)