2021年06月27日の聖書の言葉

年間第13主日「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)

 今日の福音の中で会堂長の一人ヤイロは、自分の娘が死に瀕し、どうしても救って欲しいとイエスに頼みにきました。イエスは直ぐにヤイロと一緒に娘のいる場所へ向かいます。イエスはその途上でもう一人、12年間も出血の止まらない厄介な病気に苦しむ女と出会います。その女は、せめてイエスの服に触れるだけで癒してもらえると信じ、イエスの服に触れました。それを知ったイエスは、誰が私の服に触れたのか。大勢の群衆の中からイエスは、触れた人を探そうとすると、弟子たちはこんなに大勢の群衆の中から見つけることは無理ですとイエスに言います。ところがイエスの服に触れた女が、恐ろしくなりイエスの前に出てきます。女はイエスに触れた理由をありのまま話すと「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは女に告げました。

 死に瀕しているヤイロの娘の所へ早く行かなければならないのに、どうしてイエスは、貴重な時間を途中で出会った女にその時間を費やしてしまったのだろうか。女との時間が費やされたことで、案の定、イエスはヤイロから娘が亡くなったことを知らされます。しかし、イエスは会堂長に向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。その後、イエスは亡くなったヤイロの娘の所へ行き「少女よ、起きなさい」と言われ12歳の少女は、蘇るという今日の福音です。

 ちなみに、12年間病を患っていた女とヤイロの娘12歳は、同じ「12」という数字です。聖書の中で使用される数字には含蓄された意味があります。ちなみに12は、神の完全な取り決め、確かな約束を意味しています。さらにもう一つ見られる共通のことがあります。人間は大切なものを無くす時、何かそれに変わるものを求めます。しかし、イエスは、神様が私たち人間を「似姿」として創ってくださったことを思い起こさせるのです。

 この二つの奇跡は、まさに奇跡は単なる"しるし"であること、その奇跡がなくても「似姿」として創ってくださった神を信じること、その信仰をイエス様は二人に求められたのです。神は天地創造の時、最後に人をご自分に似せて創造してくださいました。そして「良しとされた」のです。

 イエスは、二人に神を「ただ信じなさい」と言われたのです。心理学用語で「対象喪失」という言葉があります。それは大切なものをなくした時、悲嘆に苦しむ人の姿を言います。人生の中で誰でもいつの日か起こるかもしれない、否、もうすでに体験された方もあるでしょう。その苦しみ、悲しみの時、必ず今日のイエスの言葉を思い出してください。「ただ信じなさい」。希望がなくなったまさに真っ暗闇の中、その計り知れないどん底、しかしその向こう側には、イエス様の力が働く源である"神様の約束"があるということを。


2021年06月20日の聖書の言葉

年間第12主日「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4:40)

 イエス様は、弟子たちと最後に別れる時、信じる者には、それに伴う"しるし"が伴うと言われました。つまり、イエス様は全ての者のためにご自身の命を民の罪の赦しと贖いのために捧げて下さいました。イエス様がキリストの死を死ぬことが出来たのは、全てを従わせる方を信頼していたからだと聖書学者の雨宮師は言われます。確かにまだこの段階では、弟子たちにはそのことが証されていません。しかし、ご存知のように新約聖書は、イエス様の十字架上の死後、復活され、昇天されたのちに記された書であり、復活信仰を基に記されています。そのことを踏まえ、この復活の視点から福音書を観ていくと、イエス様の言葉の意味が理解できるのではないでしょうか。

 そこで今日の福音個所を観ますと、舞台はガリラヤ湖、そして弟子たちとイエスは、舟に乗って湖を渡って、向こう岸へ行くために乗り込みました。聖書の中で湖は、この世・現実世界を表していると言われます。また弟子たちの乗った舟は、教会を表現しているとも言われます。つまり、弟子たちはイエスの言葉を信じて舟に乗り現実世界を渡る教会の舟を表しているのです。ガリラヤ湖は、地形的によく風が吹き荒れると聞いています。弟子たちを乗せて、もうすでに岸から離れた舟は、その酷い風に悩まされていたことが記されています。ところが同舟したイエスは、そのような厳しい環境であっても平穏な姿勢を変える事がありませんでした。いまにも転覆しそうな舟の中で慌てふためく弟子たち、それをよそに艫を枕に平然と寝ているイエスを対照的に描く今日の福音箇所は強いインパクトを与えます。

 「どうして?」ここにイエスの神に対する信頼度とまだ神への信頼度の低い弟子たちが浮き彫りにされます。それはイエスの弟子たちへの言葉から推測できます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」"怖がる"とは、臆病という意味もありますが、聖書の中で怖がるとは"不信仰"を意味しているのです。つまり、弟子たちはまだ神に委ねる心がなかったという事です。イエスの平穏な姿勢は、全てを神に委ねるその信仰が根元にあると言う事です。神への信頼の有る無しが、イエスと弟子たちのこの世における様々な試練に対する姿勢を表現しています。あなたが現実世界の中で厳しい試練に遭遇したら、どのような姿勢をとられますか。イエスの信頼する神への信仰を少しでも学んでいく事ができますように。


2021年06月13日の聖書の言葉

年間第11主日 「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか」(マルコ4:27)

 今日の福音では、天国とは種が芽を出して成長するようなものであると言います。また最初は小さくても、やがて大きく成長するからし種のようなものであるとも言っています。さらに「神の国は、見られる形で来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの只中にある」と言われます。つまり、神の国、天国は、どこか場所的なものではなく、実に私たちの只中にすでに実現していると言われるのです。

 その根拠として次のように話されます。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない』」。

 神の国、すなわち天国というのは、ある人が地面に種を蒔いておくと、本人が知らないうちに、蒔かれた種が成長してゆくようなものであると言います。つまり、蒔いた人が知らないうちに、種が芽を出し、茎をつけ、そして穂をつけてその先に実をつけるようなものだと。神の国というのは、確実にしかもゆっくりと成長すると言っています。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。植物の成長、そこには、種、芽、茎、穂、実、収穫というプロセスがあります。種からすぐに実はできません。時間を要しますが、順に成長してゆくのです。つまり、良い土地に落ちた種は、自然に実をつけるから、あなた方が心配する必要はないと言います。天国とはそういうものですというのです。だから、わたしたちは唯、種を蒔き続けるだけで良いのです。種の成長に必要な肥料、水、雑草の除去は、農夫であり管理人である神様がして下さると言われるのです。

 もう一つの天国のたとえ話は、「天国はからし種」と言います。天国というのは、初めは小さくても、やがて成長して大きなものになるといいます。最初は目に見えないほど小さい種ですが、やがてそれは大きな鳥が宿るほどの木のように成長するのです。このたとえ話は、からし種のような小さな私たちの共同体、教会であっても、神の計画に私たちが惜しむことなく協働し続けることによって、いつの日か大きな木に成長するという約束をしてくださるのです。小さな教会だから、ほどほどにという気持ちを捨て神様の約束に信頼して、喜んで御言葉の種まきを続けましょう。


2021年06月06日の聖書の言葉

年間第10主日 キリストの聖体 「これはわたしの体である。これは・・・わたしの血、契約の血である」(マルコ14:22ー24)

 イエスと弟子たちの「過越の食事」は、特別な食事、しかも最後であることを明言します(14:25)。新約聖書では、エジプトからの解放で死から命へと導いた神が、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」としています。"新しい"という意味は、それまで神の救いの業を記念として祝っていた過越の食事ではなく、それを遙かに超えた過越を祝う食事だということです。つまり、パンが裂かれ、ぶどう酒が飲まれるところには、神の救いの業が現実となることを話されたのです(聖書学者・雨宮師)。

 さて、今日の福音の中でイエスは、過越の食事をする場所を弟子に手配させます。しかし、イエスの手配の仕方は、普通でないやり方です。当然のことながら、それを命じられた弟子たちは、イエスが事前に手配していたのではないかと思わせるような雰囲気が漂う話です。何故、イエスはそのような仕方を弟子に伝えたのだろうか。多分イエスは、ご自分に迫っている危機を予感し、受難が近づいたことを察知していた。そこで、弟子以外の部外者に知られず、弟子達だけと食事をしたかった。それは最後の晩餐だから弟子たち以外の者に邪魔されず、ご自身の愛を晩餐で直接伝えたかったのではないでしょうか。そのイエスの最後の晩餐での弟子たちに対して示した愛の証言が、「これはわたしの体である」=「これはわたしだ」という。これを食べることでイエスと一つに結ばれることですと。そして「これはわたしの血、・・・契約の血である」「契約」と「血」は切り離せないものです。それは、契約がお互いの血を賭けたもの=命がけのものであると表現するのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」と似ています。唯、イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚しています。その救いを体験した民は、神との特別な関係を生きることになるのです。これを表すのが「契約」という言葉なのです。

 この「新しい契約」がイエスの死によって実現しました。というのが新約聖書の中心テーマです。その意味は、イエスが世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとした。つまり「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とは、受難を予告する言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」と付加することによって、最終的な完成に向かう意識が強調されます。「新しい契約」は、確かにイエスによって実現されました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは、いつか来る将来のことだとも言えます。そこに向かって歩み続ける力の糧として、ご聖体が与えられているのです。そのことをしっかりと理解して、ご聖体を拝領したいですね。