2026年04月25日の聖書の言葉

4月26日 復活節第4主日 ヨハネ10・1-10

 そのとき、イエスは言われた。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 ファリサイ派の人たちは、最初はイエスのお話の意味が分かりません。羊飼いが羊を飼う姿に日常的に接していたので、まさかイエスがご自分を羊飼いに、そしてユダヤの民を羊にたとえているとは思わなかったのかもしれません。羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出すのも、羊が羊飼いについて行くのも、きっと見慣れた風景だったのでしょう。

 イエスの「わたしは羊の門である」の言葉と、「わたしを通って入る者は救われる」の言葉を聞いて、ようやくファリサイ派の人たちもイエスのたとえ話が天の国と救いの話であるらしい、と理解します。そのあとのイエスの「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」という言葉はとても過激です。この言葉を聞いたら、だれでもギョッとするでしょう。その盗人は羊を盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするのですから。

 イエスと話しているファリサイ派の人たちも、ちょっとギョッとしたでしょう。そんなファリサイ派の人たちに向かって、イエスは神の国に入るには自分を通るしかないこと、自分が来たのはユダヤの民が永遠の命を得られるように導くためにだと告げられます。イエスは、ファリサイ派の人たちに、自分が来たことで初めて神の国への道が開かれた、と言い放ったのです。

 イエスのたとえ話にファリサイ派の人たちが強く反発したことは想像に難くありません。
 でも、わたしたちは本当に「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」ことができるのか、ちょっと不安です。本当にイエスの声を聞き分けているのか自分自身に問いかけながら、祈りましょう。

参考:(第一朗読:使徒言行録2・14a、36-41)・(第二朗読:1ペトロ2・20b-25)