2024年3月、北陸新幹線の延伸によって、東京・敦賀間が3時間あまりで結ばれることになりました。ところで、今から百年以上前の1912年(明治45年)に、東京・敦賀間に直通列車が開通し、脚光を浴びた歴史があったことをご存じでしょうか。
かつては海路で、東京からパリまでは、スエズ運河経由で1か月以上かかっていました。しかし、東京発敦賀行きの「欧亜国際連絡列車」が創設され、さらに敦賀港からウラジオストックへの定期航路、シベリア鉄道(明治35年開通)を経由することによって大幅に短縮されて、17日で行くことができるようになったのです。
この最短ルートの存在が、1920年、22年のポーランド孤児救出につながりました。ロシア革命後の混乱の中、シベリアで極限状態に置かれた子どもたちを救出するために、日本赤十字社が迅速に対応し、日本軍の協力によって輸送船による救出が実行され、無事に敦賀に上陸することができたのです。
孤児たちが街の人々から温かく迎えられた様子を、敦賀ムゼウム(ポーランド語「資料館」、英語:ミュージアムmuseum)が伝えています。孤児たちは、必要な治療や物資の提供を受けた後、鉄道で東京や大阪、神戸を経て、新天地へ、また祖国への帰還を果たすことができたのです。
1940年7月、ドイツとソ連の侵攻から逃れてきた大勢のユダヤ人が、日本経由で第3国へ向かうために、日本通過ビザを求めてリトアニア領事館に押し寄せてきました。日本政府の許可が下りない中、領事代理であった杉原千畝さんはビザ発給を決断します。
そしてリトアニアがソ連に併合されて領事館が閉鎖されるその日まで、2139家族(杉原千畝記念館による数)に日本通過ビザを発行したのです。「命のビザ」を持ったユダヤ人難民は、シベリア鉄道の終点ウラジオストックから船で敦賀に上陸、その後神戸や横浜を経由して、アメリカやオーストラリア等に渡っていきました。敦賀の人たちが温かく迎え入れたことを、「銭湯が一日休業しユダヤ人難民に浴場を無料提供した」等、ムゼウムの資料が伝えてくれています。
「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(Ⅰヨハネの手紙4章21節)
人道の街敦賀を今一度訪れて、兄弟愛に満ちた歴史に触れてみたいと思っています。
〜〜カトリック教会では、11月を「死者の月」として、亡くなられた方々を偲び、永遠の安息をお祈りする月です。
心のともしび運動の職員一同、毎週のミサの中で皆様の亡くなられたゆかりの方々のために心を込めてお祈りします。〜〜
心のともしび運動 阿南孝也