ケア"care"という言葉は、「お世話をする」「介護する」などの、医療的、心理的なサービスを表す言葉として広く使われています。しかしその語源であるラテン語の"cura"を調べてみると、「他者の悲しみや痛みを自分のものとして同じように感じとること」、つまり「痛みの共感」という意味を持つ言葉であったことが分かりました。
重い皮膚病を患っている人が、イエスのところへ来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち思い皮膚病は去り、その人は清くなった。(マルコによる福音書1章40~42節)
当時のユダヤ社会において、重い皮膚病は罪の結果であると考えられ、人と接することも、街に近づくことも禁止されていました(レビ記13章45・46節)。また、汚れた人に触れた人も汚れると考えられていたのです。
では、なぜイエスは、律法を度外視して、その人に触れられたのでしょうか?全能の神ならば、遠く安全な所に身を置いて「清くなれ!」の一言で癒すこともできたはずです。
教皇フランシスコのメッセージに、その答えを見つけることができました。
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神のいつくしみがあらゆる障壁を乗り越え、イエスの手が病人に触れます。イエスは、安全で離れた場所に立っているのでも、代理人を送るのでもなく、直接、私たちの病気に触れるために来られます。このように、私たちの病気は、イエスが触れてくださるきっかけになります。イエスは、病んだ人間性を私たちから取り去り、私たちはイエスから健全でいやされた人間性を受けます。(2015年2月15日、サンピエトロ広場にて)
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なぜ、なかった方がよいとしか思えない悲しいできごとが起きるのかは分かりません。ただ言えることは、私たちが辛い思いをしているとき、イエスが共にいて、苦しみを担ってくださり、支えてくださるということです。病の中にある人が健康な人を勇気づける働きをされている姿を目にする度に、そこに神の力が確かに働いていることを感じます。
「神の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という聖パウロの言葉(IIコリント12章9節)は、間違いなく、真実を言い当てた言葉なのです。
人生の最も困難と思われるときにあっても、手を差し伸べ、共にいてくださる神さまへの信頼を忘れることなく歩んでいけますように。
心のともしび運動 阿南孝也