12使徒の一人トマスは、イエスが復活して現われたと聞いたとき「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない。」(ヨハネ20:25)と弟子たちの前で公言した人です。イエスの復活を疑ったこの言葉は、どれほどイエスを悲しませたことでしょう。しかし、このトマスの言葉は、弟子たちの代弁者であり、私たち人類の神に対する隠された本音が、トマスを通して表現しているように受け取れます。
"疑い深いトマス"と弟子たちから言われた彼は、アラム語で双子の意味"ディディモ"(ギリシャ語)とあだ名で呼ばれていました。初めて弟子たちに出現してから8日後、またイエスは弟子たちに現われました。そこにはトマスもいました。イエスはトマスに向かって「あなたの指をここに・・・」というとトマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と自身の疑い深さに気づかされてイエスに答えます。そしてイエスから「見ないで信じる者は幸いである」と諭されます。このトマスの言動を誰でも自分のように理解できると思います。つまり、イエスはトマスを通して信仰は目で見るものではなく、出来事の奥に隠されたものを感じ取る、それが「見ないで信じる者は幸いである」と言われた言葉に含蓄された意味ではないでしょうか。トマス、彼はもう一人の私です。
それから後、使徒トマスはインド・パルティア王国(現在のアフガニスタン、パキスタン、北インド)に宣教に赴き、マイラポールで殉教したと伝えられています。インドの信者たちは、自分たちを「聖トマスのキリスト信者」と呼ぶことが多いそうです。現在においてもインドのキリスト信者の誇り聖トマスは、インド人キリスト者のプライドの一端を担っているのです。